結婚したときに、ひとつ大きくほっとしたことがあって、それは、これでもう恋愛なんかしなくてよくなる、ということだった。
しかし人生には他にも大変なことがたくさん存在して、その多くは遠い未来だから、あるいは自分がそれにあてはまるかどうかは不確定だから、という理由で目に入らないだけだ。
だがまあ多くの人はその大変なことのひとつやふたつは体験せざるをえなくなるし、それは誰に、いつやってくるかなんてわからないのである。
子育てしながら働く、ということをひとつとっても、こんなにウンチとおしっこと汗にまみれた、全然おしゃれじゃない暮らしの連続を意味するとは思わなかったし、汚物がひょっとしてシャツについてないか気にする時間さえもったいないと感じるようなスピードで生きることを意味するとも思わなかった。
きっとこのあとも色んなトラブルや苦労が待ってるだろうし、そのうち介護とか自分の病気とか老後の貧困とか、考えたくもないようなことにも関わることになるのだろう。
もしぼくが若い頃のぼくに、お前の人生にはこの先ウンチとおしっこまみれの日々が待っていると伝えたら、若いぼくはどう思うだろうか。
きっと、ぼくがこれまでそうやってきたように、そんな先のことなんてよくわからないと聞き流すのだろう。
あるいは、そんな運命は自分の力で変えてみせると言うかもしれない。
それは正しくて、そんな運命なんか簡単に変えることができる。
結婚しなきゃいいだけだし、親を介護しなきゃいいだけだし、あるいは全部外注すればいいだけだ。
だけど、それはそれで仕事まみれの生活や酒まみれの生活や退屈まみれの生活が待っているだけである。
結局、ぼくらはどうあがいたって、人生のどこかの段階で何かにまみれ、もがけばもがくほど深く沈んでいくような場面に出くわすのだろう。
そしてそれはあまりに辛かったり情けなかったりみじめだったりするので、まるでそれが永遠に続くかのように感じるのだろう。
だけど忘れちゃいけないのは、どれだけ排泄物やため息や恨み節にまみれた暮らしをしていようとも、ぼくらはいま、ここに、いるのだ。
それは、いま、ここに、いない人や生き物や霊とかなんとかよくわからないものたちには絶対に手に入れられない事実である。
ぼくはこのことを大切に味わいたい。
たとえウンチとおしっこと汗の混じった耐えられないような味だったとしても、それが生きるということの醍醐味だからである。