ぼくの人生は、誰かの手段として存在する。

 

 

 

ひどい一週間だった。

 

 

 

ずっと全身がだるくて、大量の海水の重みに押さえつけられて身動きのとれない深海魚みたいだった。

仕事はなかなか進まないし、チームメンバーたちもなんだかだるそうにしているし、良くない連絡ばかりが来るし、妻は足の指をケガして辛そうにしているし、もっと自分が動けたら色々なことがマシになるのにすっかり疲れてしまって夜が来ると寝てしまう。

 

三月からずっと気持ちが張り詰めっぱなしだったから、なんていうことも思うけれど、たぶん一番の原因は天気だろう。

ぼくは雨は嫌いじゃない。

雨は急に降ってきて、これまで当たり前のように進んできた色んなものの流れを止める。

人々は何かをあきらめて温かいコーヒーをいれはじめ、読みかけの本を開き直し、そのうち誰かが音楽をかけ、ざわざわと話し声が聞こえてくる。

もともとグータラな性格なので、そうやって予期せぬ小休止が生まれる感じがけっこう好きなのだ。

だけど、ここまで雨が降り続けると、ちょっとうんざりしてくる。

いい加減なもんだ。

 

それでもまあ近いうちに梅雨は明けて、夏がやってくる。

今年の夏はきっと短い夏になるだろう。

子どもの夏休みはいつもよりもずっと少ないし、やらなきゃいけないことはいくらでもあるし、歳を取ってからは行動量がすっかり減ってしまった。

若い頃の、あの退屈を持て余して本ばかり読んでいた夏にはもう出会えない。

結局、ぼくはもう自分のためだけに使う時間というものをほとんど使い切ったのだろう。

あとの人生は、自分以外の人が何かを実現する、そのための手段を提供するぶんぐらいしか残っていないように感じる。

誰かの手段としての、自分の人生。

若い頃の自分が聞いたらとても耐えられない話だ。

だけど今はそこまで嫌な気持ちにもならない。

誰かの手段になること自体は、自分で選んでいるわけだし。

 

雨はたしかに気持ちを沈ませる。

だけどまあ、薄暗い世界に身を置いてみないと見えてこないものもあるかもしれない。

もうしばらく海の底の生活を楽しんでみるか。