報酬のない人生を、生きる。




久しぶりに下の子と、大きめの公園に出かけた。



池には蓮の花が咲きはじめていて、二人できれいやなと見とれていた。
あまりにあざやかなピンク色をしているうえに、中央に黄色い、小人が置き忘れたバケツみたいなのが乗っている。
広い葉の上には昨日の雨の名残りなのだろう、大きな水玉がコロリと横になり宝石のように輝いている。
この花だけが、まったく別の次元にある世界から突然現れたみたいだ。
そりゃまあ昔の人は、ありがたがったはずだと思った。
子どもはすぐに飽きて、今度は水の下に魚がいる、いっぱいいる、と騒いでいる。
彼も別の世界からやってきてそこまで時間が経っていないから、異次元の花はたいして珍しくもないのかもしれない。

それから少し移動して、橋の上から、向こう岸の生い茂る木々を眺めた。
風が気持ちよく吹いてくる。
さざ波の立つ池の真ん中でじっとしていると、あの懐かしい、船に乗って流されているような錯覚がやってきた。
それに身を任せてみたら、体がパラパラとほどけてあたりの空気と一緒になっていくようだった。
自分では気づかないうちに、ずいぶん疲れがたまってたんだなと思った。

コロナがやってくる少し前から、自分なりにやりたいこと、やるべきことに取り組んでいて、まあ色んな障壁があって簡単にはいかないけれども、ちょっとずつは進んでいる。
数年前の、進むべき道を見失って苦しんでいた時期と比べたら、ずいぶんマシになった。
外出ができなくても、仕事をする時間が大幅に減っても、何かにしがみついてでも、できることをやっていこうという気持ちになれた。
だから、当たり前だけど、無理はしている。
無理をすると、疲れるし、イライラもするし、そうやってがんばったのに誰もほめてくれなかったり、評価されなかったりすると、むなしい気持ちになる。
何も報酬を与えられることなく、なんでこんな自分だけが苦しまないといけないのか、と思ってしまう。
まあもちろん、働いたぶんのお金は払ってもらわないと困るのだが、それ以上に、誰かにねぎらってもらいたい、よくやったよねと言われたい、という気持ち。

だけど、そういうものは、もう本当に要らない。

自分ががんばったかどうかは、自分が一番よくわかる。
やったことのないことに思い切って挑戦してみた。
失敗を繰り返しながら、それでもあきらめなかった。
もう休みたいなと何度も思ったけど、やっぱりあきらめなかった。

まあもちろん色んな小手先の技術や、頭の回転の良しあしも大事だろうけど、結局は、やってみたかどうかと、あきらめなかったかどうか。
人生なんて、それだけのような気がする。
そして、それは他人から評価されることじゃなく、自分で考えて、自分で行動して、自分で納得することでしかない。

ぼくの悪いところで、ちょっと余裕ができるとすぐに手を緩めて、周りの反応を気にしたり、物事を斜めから見てかっこつけようとしたりする。
必死にやっている人をバカにしたりしようとする。
あるいは息が続かなくなって苦しくなってくると、こんなアホらしいことはやってられないとか、誰にも評価されないのに努力する意味などないとか言い出したりする。
だけどもうそういうのは、本当におしまいだ。

かっこわるくていいし、ダサくていいし、下品でも、空気が読めなくても、文化的でなくても、知的でなくても、やさしくなくても、男らしくなくても、身もふたもなくても、なんでもいい。
目の前の、自分がやると決めたことを、あきらめずにやり続けることができていたら、それでいい。

もう報酬を求める人生は、おしまいだ。
そういうものは、若い頃にじゅうぶんに楽しんだのだから。


池の周りをぐるっと歩いていたら、釣り人が、ちょうど大きな魚を釣りあげていた。
子どもは、網の中ではねる魚を見せてもらって、少し興奮していた。
それから釣り人はすぐに網を池の中に入れて、釣った魚を逃がして、また何事もなかったかのように釣り糸を垂らしはじめる。

ぼくはな、ほんまはな、将来はりょうしになるって決めてるねん。
りょうしってゆっても鉄砲で動物うつやつちゃうで。
魚を捕まえるりょうしやで。
下の子はまだちょっと興奮しながらしゃべっていて、汗ばんだ小さな手が、ぼくの手を握ってくる。

せやなあ、まあ色々やったらええんちゃうか。

ぼくはいい加減な返事をしながら一緒に歩く。
雲と雲と切れ目から、急に太陽の光が差してきてまぶしい。

もう報酬は、じゅうぶんに与えられている。