人が眠っている姿を目にした時、妙な気持ちになることがある。
これまで活発に行動していた人間でも、眠りはじめたとたんに動かなくなって、言葉を発さなくなる。
眠りは死のいとこみたいなものだ、と表現したラッパーがいたけれど、たしかに人が眠っている様子は死んでいる状態に一番近いような気もする。
毎日眠って起きての連続の中で暮らしているぼくらは、小さな死と生を繰り返しているのかもしれない。
古来、この国の人は、死を連想させるものをケガレ、生につながるものをカミとして区別した。
しかし、このケガレとカミはもとは同じものであり、例えば古くなったお守りを去年のケガレとして神社に奉納し、新たお守りをカミとして手に入る行為の中には、一年間の自分の暮らし自体が不浄なものを発生するものだという認識と、しかしそれを納めることでちゃんと清められ、新たなスタートを切ることができるという感覚が一体となっている。
ケガレなくしてはカミは生まれないし、カミはまたケガレへと戻っていく。
その円環の連続の中で、ぼくらは暮らしているわけである。
そういう感覚のもとで「小さく死と生を繰り返している」と言っても、特に不思議なことではないだろう。
ぼくは常々、自分の行動や判断の基準の中にあいまいなものを感じていて、例えば事業におけるKPIがどうのとかいう話では到底納得できない場面に出くわすことがある。
そんな時、自分の倫理観や拠り所としている思想に照らし合わせる必要を感じる。
だけど、ぼくには思想はないのだ。
あるとしたら、さっきの毎日を小さく死んだり生きたりを繰り返している感覚だけだ。
生きることで発生する様々なケガレを、風呂に入ってきれいに流し、疲れた身体を休めるべく、眠りという小さな死を迎える。
そして運が良ければ、また明日の朝に素晴らしい生を得ることができる。
この繰り返しをできるだけ丁寧に、そして大切に行っていく。
大げさに言えば、それは生きることを肯定し、未来が続いていくことを信じるために毎日行う祈りのような作業なのだと思う。
たいした話ではないし、当たり前すぎて今さら言及するようなことではないかもしれない。
けれども、経済成長とか予算達成とか何やら思想のように見えて実際にはただの文字列でしかないものをありがたそうに拝むよりは、自分に与えられた1日分の命を大切に生きて、また無事に明日が迎えられるように祈りながら小さく死んでいく態度のほうが、重要であるように感じる。
丁寧に生きる。
それがいまのぼくのたったひとつの思想のようなものであり、願いだ。
まあそう思いたくなるには十分なほど、雑に生きてきたからなのだけれども。