食べることは、大好きだ。
好き嫌いはほとんどないし、唯一苦手だった納豆も、結婚してからは克服した。
だけど自分で作るのはからっきしで、週末はできるだけ料理をしようと努力しているのだけど、チャーハンとかパスタとか野菜炒めとか簡単なものを作ることくらいしかできない。
もっと料理をがんばろう、という向上心がなかなか生まれないのだ。
なぜか。
それは、世の中にあふれている料理のレベルが高すぎるからだ。
定食屋に行けば、アツアツのうまそうな唐揚げがすぐに出てくるし、フレンチやイタリアンのお店に入れば、宝石のように美しい料理たちがおしゃれなお皿に乗って次々と運ばれてくる。
家に帰れば、妻の料理の品数の多さと、離乳食まで一緒に作ってしまうスピードに圧倒され、ぼくはただそれをありがたく食べるだけ。
ぼくの中では知らないうちに「料理というのはこういうものだ」というレベルが非常に高いところで設定されてしまっているのである。
ところが、いざ自分でキャベツを切ろうとすると、なんと時間のかかることか。
玉ねぎを切ろうとすると、なぜメガネをかけていながら目がしみるのか。
そしてさんざん苦労してできあがった料理の、まあなんとも美味くないことか。
そんなわけで、あまりにも理想と現実の激しいギャップに直面して、ぼくはひどくショックを受け、何の向上心も育たないのである。
料理だけではない。
服屋に整然と並べられているシャツの美しいたたまれ方や、ホテルのロビーのいつもピカピカの床の磨かれ方、そして必ず定刻にやってくる電車の恐ろしいほどの几帳面さ。
こういったぼくの身の周りにある「当たり前のもの」の精度があまりにも高すぎて、ぼくはそれに追いつく術も見つからないまま、ただ漫然と、そういった贈り物を享受し続けているだけなのだ。
だから、最近はちょっとそのへんのハードルを下げていこうと思っていて、いきなりお店のような料理はできなくてもいいから一品でも多く作れるようになろうとか、せめて職場のデスクの上だけは毎日拭いてから帰ろうとか、放っておくとすぐにポッキリ折れてしまう向上心を懸命に奮い立たせようとはしている。
しかし、それでもどうにもならないことや、本職の人たちにはかなわないことばかりの世界である。
自分の大切なやる気が失われないために、ひとつだけ、おまじないをしておくとしよう。
それは、他人に感謝する、という、単純で誰でも知っているおまじないだけれども。