行きたい世界は、自分で描くしかない。

職場のロッカーが大幅に減ることになって、荷物を大量に捨てないといけなくなった。

 

捨てるのが惜しい人は自宅に持って帰るなり、どこか別のところに移すなりすればいいのだが、そんな気にもなれず、ほとんどのものを処分した。

一番多かったのは本だった。

そのうちビジネス書は全て捨てて、それ以外の本も人にあげるか捨てるかして、何度も読み返している大切な本だけを残したら、数冊だけになった。

次に多かったのが色んな紙の資料だった。

これはほとんど中見を見ずに捨てた。

唯一、新入社員の頃に熱心に書いた数枚の企画書だけはきれいに封をしなおして残すことにした。

コピーライター時代に作ったものについては迷った。

だけどこれも特別思い入れのあるほんの数作品以外は全部捨てた。

賞状とかトロフィーとかはスマホで撮って、実物は全部捨てた。

他にも色んなものがあったが全部捨てた。

20年ほど働いてきて、残ったものは小さな段ボール箱一つぶんだった。

 

と言うとなんだかさみしい感じもするが、どちらかというとスッキリした気持ちのほうが強かった。

40才を過ぎた頃から生き方を変える、と決めた。

まあそれもうまくいったりいかなかったりだけど、環境はたいして変わらない中でも、気持ちは少しずつ変わっていったのだと思う。

だから、過去の作品や資料を見て懐かしい気持ちにはなったけど、これらの仕事が自分を作ってきたのだ、とまでは思わなかった。

もうこの中に答えはない、と思った。

 

周りに答えがないならば、それは自分で作っていくしかない。

そんなかっこいいことを言ってみても、こわい気持ちでいっぱいだ。

もしこのままアテもなく進んでいって、何も見つからなかったらどうしようとも思うし、とんでもなく間違った選択をしている可能性もある。

また、さっき、過去は振り返らない、というようなずいぶんかっこつけたことを書いたけれども、何も持っていない自分には、過去の経験ぐらいしかすがるものがないのでは、とも思ったりする。

若い人たちなら、裸一貫で勝負する、ということは平気かもしれないが、すっかり年を取って、本来ならこれまで積み重ねてきた努力のリターンを得ていく段階のはずなのに、まっさらな状態でいるのはとても危険で、恥ずかしくて、情けないことかもしれない。

いや、他人から見ればそのとおりだろう。

だけどそれは他人が見ている世界でしかない。

ぼくの世界ではない。

どれだけぼく以外の人たちの評価や常識や理想について考えたとしても、そこには永遠にたどり着くことができないだろう。

それは彼らが目指しているゴールであって、ぼくのゴールではない。

ぼくが行きたい世界は、ぼく自身が描くしかない。
どれだけダサくて、恥ずかしくて、しょぼくて、情けなくても、自分で一歩を踏み出して、自分でつかみとるしかない。

 

かっこわるく生きていこうと思う。

ほんとはもっとかっこよくて、渋くて、落ち着いた大人になりたかったのだけれども、まあ人生そんなに思い通りにはいかない。

そもそも、元々そんな人間でもない。

肩の力を抜いて、深呼吸をして、今の自分を受け入れて、ダサい一歩を踏み出していく。

その先がどうなっているかさっぱりわからない世界を手探りで歩いていく。

たぶん、今のぼくは人生の中で一番かっこわるい。

だけど、ドキドキ、ワクワクしている。

判断が遅い!のは、ダメなことなのか。

これはズルい問いで、もちろんそれは状況によってちがう。

だけど、あまりにも最近は判断の早さを求められることが多いような気がする。

で、本当にそれでいいのかなあと思った。

 

判断にも色んな種類がある

たしかに判断は早いほうが良いことが多い、というのは人生の中で何度も経験がある。

いい企画というのはすぐにピンと来ることが多く、うーんこれはどうかなあ...と悩む場合はあまり追いこんでもなんともならないことが多い。

また、期間限定のプロジェクトや明確なゴールのある作業の場合は、モヤモヤ悩んでいるヒマがあったら、小さな判断をどんどんやっていって、ちょっとずつでも先に進んだほうがうまくいくことが多い。

一方で、割と長く悩み、ギリギリまで判断できなかったこともたくさんある。

なにがなんでもコピーライターになる、という判断も、実際はそう思えるようになるまで色々と悩んでいたし、その気持ちを試されるような機会がなければ、ひょっとしたら今でも悩んでいたかもしれない。

あるいは今のような仕事と生活のしかたを選ぶようになったのも、納得いくまでかなり時間がかかった。

いや、正直に言えば、ぼくは人生におけるたくさんの判断をまだまだ保留にしている。

それらの中には本来なら今すぐ決めるべきこともあるだろうし、逆にじっくり考え、樹を待ってから判断するべきこともあるだろう。

判断にも色々ある。

 

早い判断ばかり求められる世界は余裕がない

たしかにポンポンと早い判断を繰り返し、次々に新しい展開を迎えていくのは楽しい。

それがいい方向に進むと、いい感じに脳内に刺激が走り、テンションが上がり、なんでもできそうに思えたりする。

しかしそれがずっとうまくいくわけではい。

何かの拍子に間違った判断を繰り返してしまったり、思いもよらないできごとに巻き込まれてしまったりして、しばらく再起できなくなることもある。

判断が遅い!が合言葉となるような環境では、そういう人は置いていかれたり、再起の可能性を摘まれたりする場合がある。

本当はそういう時こそ、自分のいる場所を見つめ直し、じっくりとこれから先を考える時間が必要なのだと思うけど、そんな余裕はなかなかないのが実情だ。

世界はますます早い判断と、正しい答えと、新しい情報を求めてゆく。

ぼくもそういう感じだ。

 

宙ぶらりんに耐えれるか

だけど、このところ、ぼくは色んなところで簡単に判断するのが難しい場面にばかり出くわす気がする。

感染症についても、ロシアの軍事侵攻についても、仕事のこれからについても、家族の未来についても。

大きな方針なり仮説なり妄想なりはできても、いざ今自分は何をするのか、ということになると皆目見当がつかない。

いくらそれらについて考えても、考えるだけモヤモヤが増え、余計に不安になってしまう。

じゃあまったく考えなければいいのかというと、それはそれで難しい。

そういう、すぐには答えの出ない宙ぶらりんな状況に耐えること。

それがいまぼくがぶつかっている、あるいはもう何年も何年も抱え続けている何かの正体のような気がする。

 

じゃあどうすればいいか

そこでまた急いで解決方法を探してしまいそうだが、それこそがモヤモヤの原因かもしれない。

結局、いまぼくができるのは、そういったモヤモヤを受け入れることなのだろう。

自分は解決方法を持っていない。

この先も手に入るかどうかわからない。

そんな状況を受け入れて、それが自分の人生、と開き直っちゃうことなんだろう。

それはすごく難しいことだし、そう思えるときと思えないときがある。

世の中はぼくらにさらなる早い判断を求め、歯切れの悪い言葉を否定しにかかる。

そんな中で、判断が遅い!のも大事、とはっきり思えるタイミングがどれだけあるだろう。

 

だけど、やっぱり宙ぶらりんでありたい。

ぼく自身の人生の答えを、他人から勝手に迫られ、押しつけられてたまるか、と思うし、ぼくもまた他人に対してそうあってはいけないと思う。

モヤモヤを受け入れながら歩いていきたい。

旅を、したい。

一つの国の暴走を止めるためには、世界政府のようなものが必要なのだろうか、と思ったりする。

もちろん、そういうものができたとしても、自国がその中で優位な立場を取ろうとする争いは終わらないだろう。
また、そこでもし地球全体の独裁者のようなものが出現したら一体どうなるのだろうとも思うけれど。
だけど今のようにまったく意思疎通ができない状態に陥るよりもマシじゃないかと思ったりする。

今の民主主義のやり方がベストとは思わないが、戦争の代わりに選挙で争わせる、というのはまだだいぶマシな気がする。
日本でも、選挙の様子を見ていると、これは兵器を使わない戦争なんだなあと思う。
だけど、ビラをまいても誰もケガはしないし、街宣車は建物を破壊したりはしない。
それで済むならずっとマシではないか、とも思う。

旅に出ると感じるのは、どこでもみんな同じなんだなあということだ。
ズルをする人もいるし、誰かが困っていても知らないフリをする人もいるし、とても親切な人もいる。
普段は温和な人でも何かの拍子にすごく怒るし、いつもは他人に厳しい人に優しい一面があったりする。
すっかりテレワークに慣れて、別に外出なんかしなくて大丈夫だ、と思っていたけど、今は旅をしたい気持ちが強まっている。
いや、ひょっとしたらそれすらパソコンの画面で解決することもあるかもしれない。
特に旅という形にこだわっているわけでもない。
とにかく、もっと多くの、自分とは違う人たちと会って、話をしてみたい。

話せばわかる、なんて思わない。
だけど、もっと色んな、自分と違う人と知り合いたいと感じる。
知っている人が増えれば、色々と考えなくちゃいけないことが増えるだろう。
気を使わないといけないことが増え、自由に、思いのままにできることが減るかもしれない。
だけどそれが狭い場所に一緒に暮らしている人たちに対して接するべき態度だし、そうやってお互いに譲り合いながら暮らしていくしかない。
面倒だし、イライラするし、息が詰まることもある。
それでも、ずっとマシではないか、とも思う。