大人になってから友だちをつくるのは、むずかしい。

ぼくは友だちが少ない。

仕事を通して気が合う人たちは何人かいるが、それを正確に友だちと言えるかというと、わからない。
仕事、という共通の前提があってつながっているような気もする。
とはいえ、一緒に辛い目にあったり、うれしいことを経験したりしてきて、彼らにある種の友情を感じてはいるのも事実だ。

一方で、ブログをきっかけに知り合って、今でも付き合いが続いている人たちは、なんとなく友だちと言えるような気もする。
まあ、ぼくが勝手にそう思っているだけで、相手はそうは思っていないかもしれないが、そこを考えても話が進まないのでちょっと置いておく。
それで、なぜ彼らを友だちと言えるかというと、それはブログという仕事とは関係のないものでつながっているからなのかもしれない。
だけどこの自分の線引きもよくわからなくて、実際はブログでも仕事でもつながっている人もいるし、じゃあこの人は友だちじゃないのかというと、そういうわけでもない気がする。

となると、友だちとは一体何なのか。
なんとなく、ぼくは勝手に、友だちとは利害関係を超えて付き合うことができる人だと思っているのかもしれない。
仕事での付き合いというのは利害が密接に絡んでいる。
むしろ絡んでいるからこそ付き合いやすい、というのもある。
初対面の人でも、発注者と受注者、上司と部下、あるいはライバル同士など、なんらかの利害関係が簡単に与えられる。
だからこそ楽なんだけれども、だからこそ、そういった関係性を超えて親密になるというのは難しいようにも思う。
ただまあそういう関係性を前提としながらでも(あるいは、むしろそういう関係性があるからこそ)友情というものは育まれていくので、なんとも言えない。
結局、どこまでが友だちで、どこまでが友だちでないのか、というのは当人同士の気持ちの問題なのかもしれない。
そこは、よくわからない。

ただ、最近思うのは、年を取ってから新たに友だちをつくるのは、本当にむずかしいな、ということだ。
一番大きいのは、家族ができたことだろう。
夜、飲みに行くことも減るし(そもそもお酒を飲むのをやめたし)、休みの日も家族と一緒にいる。
なかなか新しい友だちをつくる機会というのはない。
もう一つは、ぼくと近い年代の人たちはとにかく忙しい、ということだ。
ぼくと同じように家族との時間を大事にしたい人も多いし、そうでなくても仕事にプライベートにと、とにかくみんな予定が詰まっている。
お互いの忙しい合間をぬってわずかな時間で友情を深めるのはなかなか大変なことだ。

考えてみてほしい。
もし、このクソ忙しい日々の中で、今から数時間、自分の自由になる時間が手に入るとして、一体誰が、お気に入りの小説家の新作を読んだり、前からずっと観たかった映画を観たり、あるいは誰もいない静かな寝室でつかのまの睡眠をとったりすることをあきらめて、これから仲良くなれるかどうかもわからないおっさん同士のセッションをわざわざ選ぶだろう?
そうやって、ぼくら中年は知らないあいだに、構造的に友だちを作りづらい環境の中に押し込められているのである。

などと自分をまるで被害者のように言ったけれども、これはぼく個人の問題であって、そもそも昔から、あまりたくさんの友だちを必要としてこなかった。
今は家族がいてくれて、わずかながら付き合い続けてくれている人たちがいてくれて、もう十分すぎる状態である。
それでも、これからさらに年を取って、仕事を引退したり、今のように人から大事にしてもらえなくなってきたら、友だちを作るのはもっと難しくなりそうな気がする。
お金のある人や、体力や行動力が残っている人はなんとかなるだろう。
だけど、そうじゃない場合はなかなか大変だろう。

なんというか、高齢者ばかりの社会となっていくことがわかっているこの国で必要とされるのは、大人が友だちを作るための方法なのかもしれない。

自分の幸せを認めるのは、むずかしい。

自分が幸せであるということは、なかなか認めるのがむずかしいなと思う。

ひとつは「え、そんなレベルで、幸せって言っちゃっていいの?」という感じで、自分の成長を自ら止めてしまうことにつながらないか、という不安がある。
他人にそれを言うのはさらにハードルが高い。
ああこの人は成長をあきらめたんだなあ、努力を放棄したんだなあ、なんて思われそうだ。

もうひとつは「こっちはこんなに大変なのに、幸せだなんて、なめやがって」と思われるかもしれない、ということ。
いやあぼくは仕事があって、家族もあって、友人もいて、本当に幸せだと思うんですよねえ、なんてことを言っていたら、インターネットではもちろんのこと、普段の生活でも、誰も口には出さないかもしれないが、不快な気持ちになる人はいると思う。

また、そもそも「幸せ」というのは最上級表現というか、それよりもすばらしいことがなさそうな言葉でもある。
それを自分で口に出しちゃうと、なんというかもう人生も大団円というか、終盤というか、そういうことを予感させてしまって、幸せどころかむしろ不吉にすら思えてしまうかもしれない。
いずれにしたって、とかくこの世は、自分が幸せだとか満たされているとか、そういうことを認めづらい。

だけど、やっぱり、自分が幸せだと認めるのはとても大事なことなのだと思う。
まあ若くて、胸の中に向上心が満ちあふれていて、オレの人生はまだまだこれからだぜ、と思える状態の場合は大丈夫だ。
多少の不幸も燃料になるというか、この困難を乗り越えて、幸せを勝ち取ってやるぞとがんばれたりする。
だけど、ある程度がんばってきて、まあそれなりに報われたこともあるし、そうじゃないこともいっぱいあるよな、という段階になってくると、もはや努力の対価として外から得られる報酬だけでは、やっていけなくなる。
少なくとも、ぼくの場合はそうだった。
そのとき、ぼくに必要だったのは、もっと幸せになるための努力や、その努力のやり方を探すことではなくて、今の自分がいかに幸せであるかに気づくことだったのだ。
なんだつまらない、『青い鳥』の話じゃないか、子どもでも知ってるぞ、ということだけど、当の本人はそれに気づけないのだ。
だって、もう長年、ぼくは「自分は幸せである」と思うことを禁じ続けてきたからだ。

それで、じゃあそんな状態から、いかにして自分の幸せを認めることができるようになるのか、という話になるが、ぼくの場合はそれを他人から言ってもらえた。
ある方から「あなたは十分に幸せだと思います。仕事があって、大事な家族がいて、その上で人生をもっとよくしようと思えている」と言ってもらえたことがすごく大きい。
そうか、オレは十分に幸せなのだ。
そう思ったとき、つきものが落ちたように、ほっとした気持ちになったのを今でも覚えている。
だからみんな他人から幸せ認定をしてもらえればいい、なんて乱暴なことを言うつもりはない。
ただ、自分が幸せであることは、自分一人の力ではなかなか気づくのは難しいんじゃないか、と思うのだ。

まあそのために人は小説を読んだり、映画を観たり、音楽を聴いたりするのかもしれない。
また、たとえば、自分にとって心地いい内容のものだけが良い小説とは限らない。
読んだあとになんともいえない不安な気持ちになったり、当たり前だと思っていたものが崩壊していく疑似体験をしたりすることも、意味があるかもしれない。
その時、自分がいまここにいることの確かさや、誰かとつながっていられることの安心感が、とても大事に思えたりするからだ。
あるいは、日常から離れて旅をしたり、森の中を歩いたりして、普段はあえて無視している自分の感受性を取り戻すことも役立つかもしれない。
空気がおいしい、緑が美しい、空が青い、そして自分は生きている。
そういった当たり前のことに気づくことができるかもしれない。

だけどまあ難しい。
そうやって一度自分の幸せに気づくことができたとしても、また日々の多忙の中で簡単に見失ってしまう。
だから、こうやって、何度でも自分で思い出すことが大事なような気がする。

ああ、ぼくは幸せだなあ。

不安と、どうつきあうか。

今まであまり自分自身の不安と向き合うことが少なかったように思う。



若い頃は根拠のない自信に満ちていて、うまくいかなくてもなんとかなる、と思っていた。
年を取ると、その根拠が十分に作れている部分とそうではない部分ができてきて、なんでもかんでも「なんとかなる」というわけにはいかなくなってくる。
だけどそれを「うう…不安だ…」とまではっきりと自覚してこなかったと思う。
というか、自分で気づいていないふり、見ていないふりをしてきたのだ。

これまでは「ぼくは日曜日の夜が一番楽しい、明日から仕事で何をしようかワクワクしている」とうそぶいてきた。
だけど、今は、ああ明日から仕事が始まる、色々とうまくやりくりできるかなあ、と不安を感じている。
明日からのことに不安を感じる理由は色々ある。
一つには、仕事以外に楽しいことや気持ちが安らぐことが色々とあるからかもしれない。
子どもと一緒に本を読む時間、家族みんなでテレビを見る時間、食事をする時間。
あるいは小説を読む時間、こうやってブログを書く時間。

若い頃のぼくは仕事が人生の真ん中にあり、他のことは「余ったもの」でしかなかった。
ところがだんだん他にも大事なことが増えてくると、それにつれて不安も大きくなってきたように思う。
つまりは、自分が大事にしていることをこれからも守り続けられるだろうかという不安。
これまではぼくは仕事に対して全力で立ち向かってきていて、それでも自分が納得いく成果を挙げられたかというと微妙なところだ。
なのに、仕事以外の時間も大切にしている状態で、果たしてこの厳しい世界を戦い抜くことができるのだろうか。
それが、ぼくの主な不安であるような気がする。

と同時に、日曜日の夜には、多くの人たちがぼくと同じような不安を抱いていることだろう。
月曜日の朝から妙に張り切っている人や、ワーワー言っている人がいるけれども、実はそういう人たちの心の中も、本当は不安でいっぱいなのかもしれない。
なんとなく仕事では、自分が不安を感じていることを表明しづらい空気があったり、あるいは実際に「なんとなく不安です」と言っても、あいつは大丈夫かという目で見られるだけだったりする。
あるいはそうやってビビってしまったほうが負け、というような状況もあるだろう。
それでも、ぼくは自分が不安を感じていることを、ちゃんと自分で認めながら暮らしていこうと思う。
不安な気持ちも、うれしい気持ちも、モヤモヤした気持ちも、ちゃんと自分で感じていきたい。
それが人生のメインディッシュなのだ。
成功や失敗、勝ちや負け、そういったものは、おまけみたいなものだ。

そんなわけで、ちゃんと表明しよう。
ああ、明日が不安だ。
たまらない。
だけど、まあ寝るとしよう。
明日になれば、なんとかなるさ。