インターネットで書く、という危険な行為をする理由。


若い頃のぼくの夢は、書くことを仕事にすることだった。


もっと言うなら、やりたいことと、やらなければいけないことを完全に一致させたかった。
本当にやりたいことは別にあるのだけど、今は難しいから色々と我慢しているんだと言い訳をしながら生きたくなかった。
そういう、若者特有のある種の潔癖さにこだわっていた。

しかし実際に仕事をしてみると、そういった完全一致の瞬間というのはほんのわずかしかないし、それ以外のほとんどの時間は本当にやりたいことでも本当にやらなければいけないことでもどっちでもない、なんだかよくわからないもののために費やされてしまって、気がつくとすっかり年を取ってしまっていた。
いや、それは自分に対してあまりに不当な評価だ。
ぼくはぼくなりに、なんとか両者を合致させようともがき続けてきた。
そして今、若い頃とはまったく違う状況の中にいて、当時の理想とはかけ離れた仕事をしているけれども、年を取った今のほうがずっと楽しく仕事をしているとは思う。

だけど、書くことを仕事にする、ということからは完全に離れてしまった。

それでも、文章を書くこと自体にはまだ未練があると思う。
誰かが素敵な文章を書いているのを見かけると、いいなと思うと同時に小さな嫉妬を感じる。
心の中で細かいところにケチをつけたりしている。

だから、もうすっかりペースは落ちてしまったけど、細々とブログを書き続けているのだと思う。
いつかこの未練が成仏してくれることを祈って書き続けているのかもしれない。
だからインターネットに「書くことがなくなった」と思える人のことを少しうらやましく感じる。

でも、本当に書くことがなくなったら、やっぱりさみしいだろうな。
インターネットに文章を書くのは、もちろんそれを読んでくれる人がいるからなのだけど、それは特定の誰かに向けたものではないからかもしれない。
生きていると、いつもぼくらは手段と目的を合致させなきゃとあせっている。
文章を書く時も同じだ。
このメッセージにはこういう意図が込められていて、それをこういう対象に届けることで、このような効果を得る、ということばかり考えて暮らしている。
それが文章の役割だと言われてしまったらそれまでかもしれない。

だけど、インターネットに文章を書く時、ぼくはそういった手段と目的の完全一致から逃れようとしている気もする。
あんた結局この文章を通して何を伝えたかったの、とか、これを書くことによって何を達成したいの、とか、そういう追及から自由になりたくて書いているような気もする。

若い頃、ぼくは色んな先輩方から、それじゃだめだ、と教わってきた。
仕事で書く文章はオナニーじゃない。
明確な目的があって、それを達成するための手段だ。
ただ、その手段としてのユニークさを競い合うことだけが許されてる、と教わった。
それはお金をもらっているからだ、とも言われてきた。

だったら、お金を一切もらわずに無料で読める文章を書いている時、ぼくはそういったルールから自由になれる。
これはぼくがぼくのために完全に趣味で書いているのでほっといてください、と言える。
どうもそういった逃げ場としてのブログというものがあるのかもしれない。

ぼくはこれからも細々とどうでもいい文章を書き続けるかもしれないし、どこかで本当に未練が成仏してしまって何も書かなくなるのかもしれない。
そんな先のことはさっぱりわからない。
もっと言うなら、その先が一体どうなっているかわからない真っ暗な中を書き進めていくことが、書くことの一番の楽しさなんじゃないだろうか。
その先には絶望しかないかもしれない。
あるいはメビウスの輪みたいに同じところをグルグルと回り続けていることに気づくだけなのかもしれない。
いずれにしたって、無料で書く、ということは極めて危険な行為であることにはちがいない。

そして、それと同時に、原因と結果、課題と解決法、目的と手段の一致ばかりを求められる世界において、とても贅沢な楽しみなのだと思う。



ブロガーの先輩方の「書くことがない」に関する以下のエントリを読んで、そんなことを思った。
pha.hateblo.jp
p-shirokuma.hatenadiary.com
「書くことがなくなった」のであれば、書かなければよい - 自意識高い系男子

楽になるのは、まだ早い。



なんとなく感じていることにすぎないのだけれど。



ぼくたち人間や世の中にとって何が大切か、というような話をしていると、機嫌が悪くなる人がいる。
そんなことを考えていたって1円の稼ぎにもならないと言ってイライラしはじめる。

一方で、どうやったらお金が儲かるか、あるいは節約できるか、という話をしていると、機嫌が悪くなる人もいる。
そういう人は、あからさまに不機嫌になるというよりも、大切な話をしているのはわかっていますよ、と物分かりのいいふりをしながら、しかし心の中で舌を出している感じがする。

あるいは、多くの人は、状況や場面次第で、その両方の立場になる可能性があるようにも思う。
かく言うぼく自身がそうだ。
基本的には、お金のことなんて気にせずにどうでもいいことをずっと考えながら暮らしたいのだけれども、いざ儲かりそうな話があると夢中になったり、あるいは結果的には大して給料に反映されることもないというのに仕事の収益について考えて一喜一憂したりする。

楽になりたいな、と思う。
お金と関係のないことばかり考えて自由に生きたいなと思う。
それかいっそのこと、お金のことばかり考えて、お金を稼ぐことをゲームみたいな感覚で楽しめたらいいのかもしれない、とも思う。
だけど残念ながらぼくはそのどちらも実行できないし、両方の誘惑に挟まれながら生きていくしかないのだろう。

極端に言うならば、人生というのはそういうものかもしれない。
2つの矛盾する欲望や価値観のあいだを行ったり来たりして、迷い、悩み、苦しむ。
だけど、どちらか一方だけに振り切れて楽になることは我慢して、ゆらゆらと揺れながらもバランスを取り続けていく。
もちろん時には片方に傾きすぎて、大切なものをポロポロとこぼしていくこともあるし、反対に、バランスを取ることばかりに気を取られて、前に進むのを忘れてしまうこともある。

バランスを取りながら進む生き方は、外から見るとあまり格好の良いものではない。
いや、ダサい。
若い頃は、そういう人を軽蔑していた。
人生というのはもっとわかりやすく何かをとがらせて、その方向を突っ走り、色んなものを失うことを恐れず、自分だけの世界を切り拓くことに意味があると思っていた。
だけどそれは、その人が自分の人生を振り返ってみたときに、そういう風に見えるかどうかということだけであって、どんなにとんがった人であっても、その人なりに必死にバランスを取りながら生きているというのが実際のところじゃないだろうか。
だけど若い頃は辛抱もないし、成果をあせっているし、かっこよくありたいと願っていたので、そういうことは理解できなかったのだろう。

だから、お金のことばかり話す人も、価値観のことについてばかり話す人も、みんなそれぞれの状況の中で、なんとかバランスを取ろうとしているのである。
ただ、そのバランスが最近は素人目に見ても崩れすぎているような気はする。
お金が好きな人は、お金の話しかしなくなり、価値観について考えている人は、価値観のことしか話さなくなっている気がする。
多くの人が、早く楽になりたがっているような気がする。
ぼくは自分の小さな経験から、それはどうもあんまり良い選択ではないように思う。
別に、ずっと苦しみ続けたほうがいいとも思わないけれども、人生は苦楽が適度に織り交ぜられているくらいがちょうどおいしいように思う。



なんとなく感じていることにすぎないのだけれど。

生活は、デザインできるのか。

先週、色々な予定が一度に中止になり、急にヒマになった瞬間があった。



もちろん今すぐやらないといけない仕事が中止になっただけで、やるべきことはいくらでもあったのだが、とりあえず返信が必要なメールやメッセージに返事を書き、今後のスケジュールを確認し、それから最新のニュースを眺め、自分のタイムラインを眺めたら、一瞬、やることがなくなった。
それなら小説を読んだりブログを書いたり音楽を聴いたりすればいいのだが、そんな気持ちにもなれなかった。
おまけに1~2時間後には家事を再開する必要があるので、今から何かに没頭するほどの余裕はない。
今考えると、昼寝をすればよかったのだ。
ずっと睡眠が足りていないし、もし足りていたとしても、気持ちの切り替えとして役に立つ。
あるいは軽い運動をすればよかった。
あるいはただぼんやりとすればよかった。
それなのに、ぼくはそのどれもせず、ただひたすら今からどうしよう、とあせっていた。
あせったままで空白の時間はすぐに過ぎ、やらなければいけないことの洪水が押し寄せてきて、ぼくはまたいつもの、ただ忙しいだけの時間の流れへと戻されていった。

あの空白は一体なんだったのだろうと思うに、大量に押し寄せてくる情報に対して必死に反応し、またその反応が返ってきて、それを打ち返し、といった行動をし続けているうちに、それに過敏になってしまっていたように感じる。
だから、急に突然レスポンスが止んだとき、高ぶった神経を休ませるのにひどく時間がかかったのだろう。

コロナの前から、ぼくの毎日はいつも、情報による刺激とそれに対する反応の繰り返しだった。
じっくりとアイデアを考えたり、何かを時間をかけて作ったり、こんがらがった状況を腰をすえて整理したりすることもあるが、いつもそればかりしているわけではない。
むしろほとんどの仕事は、他者からもたらされるメッセージか、反対に自分から発信するメッセージをきっかけとして発生し、その打ち返しが繰り返されていく。
それが軌道に乗るなり問題視されるようになると参加者が増えていき、反復運動は乗数的にふくれあがる。
それを指してぼくらは仕事と呼んでいるが、はたしてそれは本当に仕事なのだろうか、という気もする。

それは仕事だけでなく、生活全般の様式でもある。
子どもの学校からの連絡がメールやアプリで来て、それに対して必要な情報を返す、あるいは確定申告の期限が迫っているというニュースを見て、あわてて書類を揃えて提出する、あるいは今から24時間以内なら半額ですよと通販サイトであおられて、焦って何を買うべきか必死に考えて購入ボタンを押す。
その総体を、ぼくらは生活と呼んでいる。

デザインとか設計とかいう言葉には、この刺激と反応のラリーの効率を上げたり、反対にあえて非効率にすることで、ラリーのあり方を制御しようとする意思を感じるが、なんとなく不気味な印象もある。
他人によって自分の生活がデザインされる、とかなると危険すら感じる。
だが、残念ながら、現時点では、ぼくらは他者によるなんらかのデザインを受け入れながら暮らすしかないし、その中で自分の生活も自分でデザインしなければいけない。

じゃあ、ぼくらはどうやって自分自身の生活をデザインすればいいのだろう。

ぼくは、なんとなく、無秩序との同居を前提にすることが大事なんじゃないかなと思う。
何かの用事のために道を歩いている途中に、おいしそうなパン屋を見つけたり、まじめな仕事の会議をしている最中に、急に人生の謎が一つ解けたり、ぼくらはいつもデザインされた行為から脱線してしまう。
だからといって、脱線を前提にしたデザインをしよう、と言ってるのではない。
脱線というのは、その先にまた新たな脱線が待ちかまえていて、そこからまた脱線が起こり、どこまでも遠くへと飛ばされていくものだ。
そんなものを設計の中に組み込む、なんてことは無理な話だ。
大切なのは、そういった無秩序な世界がまずあって、その中でほんの少しだけ自分でもなんとかできることがあるかもしれない、というくらいの態度なのだと思う。

それじゃ、このコントロール不能な世界の中で、個人なんて無力じゃないか、とも思われるかもしれないけれども、そうは思わない。
一人一人は混沌の大海の中に浮かぶ小舟であっても、ぼくらは同じようにプカプカと浮かびながら、なんとか毎日をやりくりしているのである。
そこでお互いに声をかけあうこともできるし、持っているものを交換することもできるし、刻一刻と変わっていく世界の地図を持ち寄って当面の方針を検討することもできる。
それくらいのゆるい関係がちょうどいいように思う。


まあ、それをデザインと呼ぶのかどうかはよくわからないが。