書くことは、キノコを持ち帰ること。

チェコ好きさん (id:aniram-czech)のこの文章を読んで、とてもよかった。


blog.hatenablog.com

この時の決断は決して褒められたものではないと思うし、同様のことをあまり他人に勧めるつもりはないが、会社を辞める決断ができたのは、間違いなくブログがあったからである。
もちろん、ブログから得る収益をアテにしていたわけではない。当時の私に収益はほぼない。「ブログがあるから大丈夫」は、「ブログで稼ぐから大丈夫」という意味ではなくて、ブログを書き続けることによって自分の「核」のようなものを育てることができていたし、人脈もわずかながら構築できていたので、会社を辞めてもなんとかなる気がした、みたいなことである。

ぼくも「ブログがあるから大丈夫」という感覚が自分の中に育ってからは、多少のことでは動じなくなったように思う。
いや、人生の問題というものは、多少のこと、という言葉で片づけられるほどシンプルな問題ばかりではないこともわかってきた。
だからこそどんどん複雑になっていく世界の中でもがきながら、なんとか自分が手につかめたり、足を引っかけて登れそうだったりするものを見つけて、ほんのちょっとずつ進む作業が必要だし、ぼくにとってはそれがブログを書くということなのかもしれない。

もうひとつ、チェコ好きさんの文章を読んでいて思ったのは、ブログというものが人生に役に立つようになるには、割と長い時間がかかるものかもしれない、ということだ。
仕事をしているといつも対費用効果の算出を求められる。
それじゃブログの対費用効果ってなんだろう?という話になるのだが、いつも成果を急ぐあまりに失敗してしまうことの多いぼくにしては珍しく、ブログについては何かを急いで回収しようとしなかった。
理由のひとつとしては、書くことだけで十分に楽しかったから、その場で「効果」を回収できていた、ということがあるだろう。
そして、もうひとつは、どうもこれは何かを刈り取ろうとするような類のものではない、となんとなく思うようになってきたからだ。

はじめ、ぼくはブログを家庭菜園のようなものだと思っていた気がする。
誰もが気軽に自分のベランダで、自分の手頃なサイズの文章を育てて、自分で味わう。
で、もしちょっと実りが多ければご近所にも配って回ってもいいかな、という感じ。
それはあくまで自分だけの所有物。
だけど、今はブログを書くということは、大きな森の中を散策して、珍しいキノコや面白い葉っぱを見つけたらちょっとだけ持って帰ってあとでじっくり鑑賞する、そんな行為であるように感じる。
自分の書いた文章はたしかに自分のものであるけれども、何かを書こうと思ったきっかけは、普段の生活やインターネットの中でのできごとから与えられることがほとんどだし、そこで書いた文章は、たとえ自分が書いたものであっても、色んな誤読、誤配をへて、まったく違う形となって誰かのところにたどり着き、また違う文章を生むきっかけとなる。
ブログに書いたことは、自分だけのものでもなければ、所有物ですらないのかもしれない。

そうやって広い森の中をさまよっているうちに、ぼくはこのわけのわからない世界での歩き方を少しずつ習得していったように思う。
目に入った風景だけが世界のすべてだと決めつけない眺め方。
同じように森をさまよい歩いている人たちとの付き合い方。
そして、まったく見通しがつかない場所での進むべき方向の決め方。

ただまあ、だからといって、ぼくははじめからそういったことを学ぼうと思ってブログを書いていたわけでもない。
そう思っていたら途中でやめてしまったかもしれない。

そんなことを考えていると、ぼくらはつい目的とか目標を設定したがるけれども、本当にそれが良いことなのかどうかわからないな、と思ってしまう。
ある種のものは、それをいくら必死に求めても手に入らない場合があるように思う。
それよりも、肩の力を抜いて、たいした目的も持たず、気楽に、しかししつこく、あるいは惰性で、いつのまにか続いている、そんな態度のほうがうまくいくこともあるのかもしれない。

好きを仕事にとか、好きを現実にとか、ずっと思ってきたけれども、好きなことというのはいくら本人が自制しようとしたって勝手に続いてしまうものだったりする。
他のこともブログと同じようにもっと気楽に、気が向くままに足を進めていってもいいかもな、と最近は感じている。



もうこの年になると、自分が好きなことは、自分が一番よくわかっているわけで。

考えるのは、ちょっとお休み。

 

 

 

腰痛がひどい。

 

 

 

持病なので、我慢してたら治るだろうと思っていたが、痛くて夜も眠れない。

病院で飲んだ薬もすぐに効いてこないので、家事も子どもの面倒も放棄して、週末は寝てすごしていた。

痛くて眠れないから、ただ横になって、はじめはスマホをいじっていたがそれも辛くなってきたので、ひたすらぼんやりしていた。

この一年はほんとに色々あった。

色々あったせいで、いくらでも考えることがあり、いくらでもやることがあって、ちゃんと休んだことがほとんどなかった。

ああ腰が痛いなあということしか考えられない状態になってはじめて、ようやく久しぶりに休めた。

何を言ってるかよくわからないけれども。

 

これからはしばらく、あまり難しいことを考えずにやっていきたいなと思う。

下手の考え休むに似たり、と言うけど、休むのだったら、つまらないことを考えずにただ休むほうがいいし、もっといえば、人生は何かをじっくり考えて、そのあとしっかり行動して、また考えて、というようにはできていないように思う。

考えながらも行動は始まっているし、行動しながらも考えは変わっていく。

何かを企画するときも、まあはじめは机に座って考えはじめるわけだが、考えるというよりはできるだけたくさん思いつくことを書いていた。

小さな違いかもしれないが、頭の中で考えるだけなのと、書いて文字にするのでは、やはり違う。

手を動かしているうちに、さっきまでとは違うスイッチがどこかで入る。

 

まあ書くということなら、これまでも毎日のようにやっていたし、ブログもたまに書いている。

だけど、それはどちらかというと頭の整理とか、これまでやってきたことの総括をしている感じに近く、これはやっぱり行動するというより考えるのに違い感じがする。

一方で、手を動かして、思いつくことを書いてみて、そこから次の言葉が出てきて、それを頼りにもっと遠くまで進むことができて、という、綱渡りのような作業は、ああ身体を使ってるなあという感じがする。

こういう話をしているとインプットとアウトプットという話にもなりやすいが、そのどちらにも関わっている話かもしれないし、どちらも関係のない話かもしれない。

どちらかというとマラソンとか水泳とか、あるいは山登りとかに近い話だ。

いや、もっと気楽な、散歩のような。

 

どこに向かうのかとか、なんのためにやるかとか、そんな難しいことは考えず、気の向くままに歩いていこうと思う。

 

腰が痛くても、進むことができる道もあるのだ。

いつも最初は、グーから。



今日は、久しぶりに子どもたちと近所の公園に出かけた。



子どもたちは知らないあいだに遊ぶのが上手になったなと感じる。
何して遊ぶ、と聞くと、下の子が、はい!けいどろ!と言う。
けいどろってどんなの?
まず警察が犯人を一人を捕まえるでしょ?それを牢屋に入れるの。で、もう一人が助けに来てタッチしたら逃げられるの。
わかった?わかったら、はい、早くじゃんけんしよ!
最初はグー、じゃんけん…ちょっとお父さん!ちゃんと最初はグーでやらなあかんねんで、はいやり直し、最初はグー!
そんな調子でどんどん仕切られて、おかげでぼくは親の役割をしなくてよくなる。
ただ一人の泥棒として、逃げて、逃げまくればいいのである。

この公園で子どもたちと遊んでいると、昨年の臨時休校の頃を思い出さないわけにはいかない。
果たしてこれから自分たちの生活はどうなるのかさっぱりわからないまま、みんなで自宅にたてこもっていた。
ぼくが仕事をしているあいだはなんとか静かにしてくれるよう子どもたちに協力を要請していたが、しかしそれもすぐに限界が来るので、人が少ない時間を見計らって公園に出かけ、キャッチボールや鬼ごっこをしていた。
そのうち同じように行き場がなくて困っている近所の子どもたちが増えてくると、頃合いを見てさっと引き上げる。
まるで鬼ごっこがまだ終わっていないかのように周りの様子をうかがいながら、自宅までコソコソと帰っていた。

子どもたちはまだまだ遊び足りなかったのだろうけど、彼らなりに事情を察して、満足したことにしようと努力していた気がする。
その代わり、家の中でカードゲームをしたり、本を読み聞かせしたりして、一緒にいる時間を楽しくしようとこちらも工夫していた。
だが、自分の予定通りになかなか物事が進まなかったり、仕事の疲れが出てきたりすると、ぼくはすぐに怒ってわめいていたので、子どもたちのほうがこの面倒な同居人に対して気を使っていたのだろう。
その頃からとっくに彼らは、守られるべき存在ではなく、みんなで同じ空間を共有し、お互いに気を使いあいながら一緒に暮らすチームメンバーになっていたのだと思う。

今まで、ぼくは無理に気張って、人の親であろうとして空回りしていたように思う。
だけどこの1年、たくさんの時間を子どもたちと一緒にすごせたことで、自分は単なる家族の構成員の一人でしかないと気づけたように思う。
すぐにキャパがなくなって叫んだり、仕事のことで頭がいっぱいになると何も考えられなくなったり、急に子どもたちよりも幼稚な行動を取ったりする、そういうどうしようもない一人のメンバー。
そして、これから年を取って、できることはもっと減っていき、もっと厄介な人間になっていくだろう。
だけど、それとは対照的に、たぶん子どもたちはどんどんしっかりしていくのだろうな、と思う。
親になるというのは、弱い者を庇護するスーパーマンになるということではないのだろう。

これから、この世界とぼくらの生活がどうなっていくのか、さっぱりわからない。
だけど、たぶんこれからも、色んな変化を受け入れながら、あまり力まずにやっていけばいいように思う。
自分だけではなく、誰もが悩み、苦労し、それでも前に進もうとしているのだ。
そんなお互いの状況を認め合いながら、じっくりやれば、世界は少しずつ良くなっていくような気がする。
焦らずに、いこう。


お題「#この1年の変化