いつも最初は、グーから。



今日は、久しぶりに子どもたちと近所の公園に出かけた。



子どもたちは知らないあいだに遊ぶのが上手になったなと感じる。
何して遊ぶ、と聞くと、下の子が、はい!けいどろ!と言う。
けいどろってどんなの?
まず警察が犯人を一人を捕まえるでしょ?それを牢屋に入れるの。で、もう一人が助けに来てタッチしたら逃げられるの。
わかった?わかったら、はい、早くじゃんけんしよ!
最初はグー、じゃんけん…ちょっとお父さん!ちゃんと最初はグーでやらなあかんねんで、はいやり直し、最初はグー!
そんな調子でどんどん仕切られて、おかげでぼくは親の役割をしなくてよくなる。
ただ一人の泥棒として、逃げて、逃げまくればいいのである。

この公園で子どもたちと遊んでいると、昨年の臨時休校の頃を思い出さないわけにはいかない。
果たしてこれから自分たちの生活はどうなるのかさっぱりわからないまま、みんなで自宅にたてこもっていた。
ぼくが仕事をしているあいだはなんとか静かにしてくれるよう子どもたちに協力を要請していたが、しかしそれもすぐに限界が来るので、人が少ない時間を見計らって公園に出かけ、キャッチボールや鬼ごっこをしていた。
そのうち同じように行き場がなくて困っている近所の子どもたちが増えてくると、頃合いを見てさっと引き上げる。
まるで鬼ごっこがまだ終わっていないかのように周りの様子をうかがいながら、自宅までコソコソと帰っていた。

子どもたちはまだまだ遊び足りなかったのだろうけど、彼らなりに事情を察して、満足したことにしようと努力していた気がする。
その代わり、家の中でカードゲームをしたり、本を読み聞かせしたりして、一緒にいる時間を楽しくしようとこちらも工夫していた。
だが、自分の予定通りになかなか物事が進まなかったり、仕事の疲れが出てきたりすると、ぼくはすぐに怒ってわめいていたので、子どもたちのほうがこの面倒な同居人に対して気を使っていたのだろう。
その頃からとっくに彼らは、守られるべき存在ではなく、みんなで同じ空間を共有し、お互いに気を使いあいながら一緒に暮らすチームメンバーになっていたのだと思う。

今まで、ぼくは無理に気張って、人の親であろうとして空回りしていたように思う。
だけどこの1年、たくさんの時間を子どもたちと一緒にすごせたことで、自分は単なる家族の構成員の一人でしかないと気づけたように思う。
すぐにキャパがなくなって叫んだり、仕事のことで頭がいっぱいになると何も考えられなくなったり、急に子どもたちよりも幼稚な行動を取ったりする、そういうどうしようもない一人のメンバー。
そして、これから年を取って、できることはもっと減っていき、もっと厄介な人間になっていくだろう。
だけど、それとは対照的に、たぶん子どもたちはどんどんしっかりしていくのだろうな、と思う。
親になるというのは、弱い者を庇護するスーパーマンになるということではないのだろう。

これから、この世界とぼくらの生活がどうなっていくのか、さっぱりわからない。
だけど、たぶんこれからも、色んな変化を受け入れながら、あまり力まずにやっていけばいいように思う。
自分だけではなく、誰もが悩み、苦労し、それでも前に進もうとしているのだ。
そんなお互いの状況を認め合いながら、じっくりやれば、世界は少しずつ良くなっていくような気がする。
焦らずに、いこう。


お題「#この1年の変化

ずっと、認めたくなかったけれども。

 

 

 

若い頃はずっと、明日は今日と違う自分になれると思っていた。

 

 

 

実際に、寝れば体力は完全に回復したし、今までできなかったことが急にできるようになる、という経験も多かった。

世の中というものは、何か一念発起して、それに向かって突き進めば、必ず何らかの道が開けるものだと信じていた。

どんな状況に陥ったとしても、そこで必死に努力すれば、どこかで一発逆転を起こすことができると思いこんでいた。

そして、毎日同じようなことを地道に繰り返して、ちょっとずつ進んでいくような生き方をどこかでバカにしていた。

だけど年を取って思うのは、しかし残念ながら、人生は地道なことの繰り返しであって、自分という存在は生まれてから今までの日々の生活を積み重ねてきた結果としてここにいる、ということだ。

 

なぜそう思うのか、なかなかそれを説明するのは難しい。

何かはっきりと根拠があるわけではない。

ただ、それなりに長く生きてきて、年を取った今、これまでの生きてきた時間を振り返ってそう感じる、というくらいのことだ。

子どもと一緒にすごす時間が多いから、というのもあるだろう。

子どもは毎日少しずつ、地道に成長していく。

たしかに急に何かができるようになる瞬間はあるのだけど(そして本人はそれが急にできるようになったと感じているはずだが)、親として一歩離れたところから見ていると、まあここまでちょっとずつ経験を積み重ねてきた結果だから妥当だな、と思えることがほとんどだ。

自分のことはよくわからなくても、子どもの様子を見て、ああぼくもそうだったのだろうな、だけど自分では気づいていなかったのだろうな、と感じる。

 

また、年を取って物覚えが悪くなっても、自分が望んで努力していることについては、昔のような大きな成長はまったく期待できないにしても、ちょっとずつ上手くなったり、得意になっていったりする。

だけど、これもやっぱり以前のように、ふと急にできるようになるとか、目の前の光景が一変するとか、そういう種類のものではなくなってきた。

そりゃこれだけやったのだから、まあこれぐらいはできるようになるよなと、納得するような程度の変化がほとんどで、それより下回る結果だったとしてもそれほど落ち込まないし、逆にあまりに上達が早すぎる場合でも、だからといって夢中になりすぎない。

必死にやったところで、どうせどこかで行きづまることがでてくるし、行きづまったからといって全てが終わりになるわけではない。

焦らず、たゆまず、毎日を続けていって、その中で叶うこともあれば、永遠に叶わないこともあり、どっちにしたってそれがぼくの人生だ。

そんな風に、最近は思うようになった。

 

あらためて人生を振り返ってみても、どうもぼくの人生というものは、結果を焦って短期間で勝負をかけようとしたものは、だいたいうまくいっていない。

うまくいったと思っていることであっても、実はその前から地道に積み重ねていたものがあって、その上に結果が花開いただけにすぎなかったりする。

どうしても若い頃は人生をドラマティックに生きたいと願うし、想定どおりの結果しか得られないような生き方の何が面白いのだと思うわけだが、まあ実際はそんなに無茶をせずに暮らしていても人生というのはけっこうドラマにあふれているものだし、想定通りに生きるなんてことに至っては、まあまったくもって不可能である。

つまりは、毎日を地道に生きていても、十分に人生はドラマティックで予測不可能なのである。

 

というようなことを書いてみて、ずいぶん自分の人生観は変わってきたなあと感じる一方で、しかしどこかでなつかしい、親しみのある感覚であるようにも思う。

それが一体何なのかは思い出せないけれども。

まあいずれにしたって、自分のペースで歩き続けよう。

地道に、機嫌よく。

ぼくだけの未来、ぼくらの未来。

 

 

今の自分は、輝かしい未来の自分を実現するための手段でしかない。

 

そんな風にぼくは考えていた。
そしてそれは、自分が想像する自分自身の未来が輝かしいものである場合に限り、うまくいく考え方だった。
年を取ると、未来の輝かしさは失われていく。
若い頃に描いていた、世の中で大活躍をし、脚光を浴びているはずだった自分にはついになることができず、これから先は年老いて、ただ衰えていくだけの未来しかない。
これからの人生はただ負け続けるだけの空しい消化試合となる。

だから、年を取ったら人生における時間のとらえ方を変えていく必要がある。
ぼくはそう考えた。
遠い未来ではなく「いまここ」の現実を見つめ、目の前のことに集中して生きていけるようにする必要がある。

そう考えた。

ところが、どうもこの考え方には問題がある。

いくら「いまここ」に集中しようとしても、ぼくの毎日は、これから先のことと切り離すことはできない。

朝起きて、軽く運動をしよう、その動きに集中しよう、という時でさえ、この運動を毎日続けることでこれから先の健康が維持できる、という考えから逃れることはできない。

そして、仕事の場合は、ほとんどすべてのことが未来についての話ばかりだ。

今後のスケジュールについて考えずにはいられないし、これから先の進め方についてどちらのプランを選ぶのか、それを選んだ場合は何が必要になるのか、それらを入手するためには今どうすればいいのか、何もかもが未来によって支配されている。

いや、今ぼくは目の前のことに集中したいから未来の話は一切しないでくれ、なんて言うわけにはいかない。

いくら「いまここ」を大切にしようとしても、未来を無視することはできない。

じゃあどうすればいいのか。

 

そこで思うのは、この未来とはいったい誰の未来なのか、ということだ。

まず、ぼくの未来である、ということは間違いがない。

ぼくに全く関係のない未来についてまで考えて、今の行動を決めるというのはなかなか難しい。

ただ、ひょっとしたら、未来は、ぼくだけの未来ではないのかもしれない。

チームで仕事をしている場合は、チームメンバー全員に共通する未来について考えている。

あるいは得意先や得意先の顧客について考えている。

そして、これからの世界を生きていく人々について考えている。

家族の場合はもっとわかりやすい。

まして、子どものことを考えるときなんて、自分がいなくなった世界についても想像を巡らせているのである。

 

もし自分だけの未来について考えているならば、その未来に希望が持てなくなってきた時点で、人生というものは空しくなる。

もう未来に期待はできないから「いまここ」に集中しよう、と言っていても、それはこれから老いて醜態をさらすしかない現実から目をそらして、ただ逃げているだけだ。

でも、ひょっとして、ぼくが考えている未来というものの中に、ぼく以外の存在も含まれるのなら、そして、ぼくがいなくなったあとのことも含まれているのなら、少し「いまここ」の意味も変わってくるのではないだろうか。

仕事のチームメンバーの中にはこのあと別の会社に行ったり、別の仕事をはじめる人もいるだろうし、育児や介護など誰かを見守る立場になる人もいるだろうし、会社にとどまって経営に関わる人もいるだろう。

また、ぼくの仕事は、この世界に暮らしている人々にほんのわずかな変化をもたらすかもしれないし、そういう意味では、ぼくは彼らの人生の未来にも関わっているのだ。

家族の未来については言うまでもない。

 

つまり、ぼくが向き合わざるをえない未来とは、「ぼくだけの未来」ではなく、「ぼくとぼく以外の人々の未来」。

「ぼくらの未来」なのだ。

そう考えると、少しだけ気持ちが楽になる。

ぼくが「いまここ」で取り組んでいることは、ひょっとしたら(いや、ひょっとしなくても)自分自身のこれからの人生に良い影響をもたらしてはくれないかもしれない。

どれだけ仕事をがんばったって、それほど給料は増えないかもしれない。

でも、ぼくの仕事は誰か他の人を力づけ、その誰かが活躍し、ぼくらの世界を少しだけ良いものにしてくれるかもしれない。

どれだけ育児をがんばったって、誰にも感謝されず、何の利益も得られないかもしれない。

でも、子どもたちが成長し、彼らがこの世界の未来をちょっとでもましにしようと行動していけるなら、ぼくが生きてきた意味も少しはあると言えるだろう。

つまり、ぼくにとっての時間は、現在とその先にある「ぼくだけの未来」を結ぶ一直線のものではない。

現在を中心として、その先にあるさまざまな「ぼくらの未来」に向けて、おうぎ形に広がっているのだ。

ぼくの「いまここ」は、ぼくだけでなく、ぼくを含めたたくさんの人々の未来に向けて広がり、なんらかの影響を与える。

いま、ぼくはそんな場所に立っている。

 

 

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それに加えてもう一つ思うのは、ぼく自身の現在だって、ぼくよりもずっと前から生きてきた人たちの「ぼくらの未来」の一部なのだということだ。

ぼくは、名前も知らない誰かから、ほんの少しずつの未来を託されている。

それを次の未来へとつなぐだけで、自分は十分に生きてきたと言えるのじゃないだろうか。

 

そんなわけで、ぼくは安心して、これからも、未来を妄想するという遠い目と、「いまここ」に集中する近い目と、どちらも持ちながら生きていけばいいのだ。

ぼくはいつでもどこでも、顔も見たことのない「ぼくら」とちゃんとつながっている。