やっと、かっこつけなくてよくなってきた。

 

 

 

イケメンでも秀才でもないくせに、無理にかっこをつけ続きてきた人生だった。

 

 

 

いや、イケメンでも秀才でもないからこそ、それをコンプレックスに感じて、無駄な時間とお金を費やして、かっこをつけ続けてきたのだ。

その投資をもっと別のことに回していれば、ずっとましな人生になっていたかもしれない。

だがそういうことは当時は思いもよらず、本人は本人なりにかっこつけることを深刻にとらえていて、あとになってからやっと気づく。

まあ人生というのは、そういうものなのだろう。

反対に、若い頃から世の中というものがよく見えていて、女の子にモテたいとか周りの人たちにちやほやされたいとか、そういった短絡的な欲望から自由になって、本当に自分のやりたいことや関心のあることを長く追い続けられる人が時々いるのだが、ああいう人たちの頭の中はどうなっているのだろうか、と不思議に思う。

それこそ彼らは生まれながらにして人生二周目なのかもしれない。

ただまあ、ぼくは残念ながら前世は犬だったのか、それとも何かの虫だったのか知らないが、とにかく人間をやったのは今世がはじめてなのだろう。

あっちに惑い、こっちに迷い、ずいぶんふらつく人生を送ってきたなあと思う。

 

ところがさすがに40歳をすぎ、もう自分でもおっさんと認めざるを得ない年齢になってきて、ようやくぼくは、かっこつけなきゃならぬという呪縛から離れることができるようになってきた。

もはやいくらかっこつけようが、おっさんには変わりはないし、若い人のあのギラギラした、生きる力が無限に湧き出してくる感じには絶対に勝てないことが、はっきりとわかる。

そうか、俺はもうとっくにかっこつけても仕方がない年齢になって久しいのだな、と気づくと、急に気持ちが楽になってくる。

かっこつけなくてもいいということは、かなりの面倒を減らしてくれるのだ。

まず髪型や服装を過剰に気にしなくてよくなるので、朝起きてから仕事を始めるまでの時間がすごく短くなる。

自分ができるやつと思われようとしなくてよくなるので、会議や提案では、もっともらしいことを発言しようとするよりも、良い会議、楽しい提案にしていくために何ができるか、ということに集中できる。

それに、子どもから無理に尊敬されようとしたってもうとっくに手遅れだということもわかるので、親は脇役になって、子どもがあっち行ったりこっち行ったりする様子を見守るしかない、とあきらめもつく。

そして、それでもやっぱり自分が好きだと思えることはちゃんとわかるので、他のことはあきらめたり、我慢したりしてもまあしょうがないな、とも思えるようになる。

 

生きていると、色んな情報がこちらにやってくる。

その中には、すっかり年を取って、どうかっこつけても全くかっこがつかない自分にぴったりの、気持ちが楽になるような話もある。

だが、どうも大半は「もっと自分の成長に投資しよう!努力を続けていればいつか報われる!自分磨きをしっかりやって、他人から尊敬され、もてはやされる人間になろう!」というメッセージばかりだ。

別にそれはそれで必要としている人たちがたくさんいるから大事なことなのだろうけれど、ぼくのように、さすがに年を食って、もうかっこつけてる場合じゃないよな、自分の成長ばかりこだわっている時期はとっくに過ぎたな、と思いはじめている人間にとって役に立つ情報があまりにも少ないように思う。

だけどまあそういうことを意識して、あらためてアンテナをチューニングし直してみると、微弱であってもちゃんと今の自分だからこそキャッチできる電波というものはある。

老いについて書かれている小説というのは世の中にけっこうたくさんある。

また、老いの先には死があって、年を取ることについて考えるということは、結局はこの死というやつについて考えることにもなる。

そして自分の人生の終わりについて考えを巡らせてみると、ああやっぱりもうかっこつけてるヒマなんてないぞと、あらためて思う。

何が成長だ。

ぼくはとっくに、終わらせる準備を始めないといけない段階にいたのである。

ああいい人生だったなあ、辛いことも悲しいこともいっぱいあったけど、総合的に考えるとこれはなかなか良い終わり方じゃないか、そう思える瞬間に向けて、やることはいくらでもある。

それは、とても大事なことだと思う。

にもかかわらず、世の中には、あくなき成長、あくなき自己投資、そしてあくなきリスクヘッジについての情報ばかりがあふれている。

これはなかなか厄介である。

誰もが自分のことをいつまでも若者と思い、いつまでも死なないと錯覚してしまう。

そんな世界に、ぼくらは生きている。

 

そういうこともあってか、最近は、ぼくは自分よりもお年を召した方のことをよく見ているような気がする。

あんな風に年を取りたいなとか、ああなっちゃおしまいだなとか、結局みんな年を取ったら同じだなとか、いい加減なことを思っている。

あるいは、自分と同じように年を取って、若い頃のような輝きが目に見えて失われていっている人たちのことも、よく見ているように思う。

好奇心と、同情と、恐怖と、軽蔑と、そして敬意が混じったまなざしで。

そうやって、ぼくは生きることについて、これまでとは少し違った解釈を加えはじめているように思う。

まだ、詳しいことははっきりとはわからないけれども。

 

まあとにかく、世の中にはまだまだ興味深いことがたくさん眠っている。

かっこつけてるヒマなんて、ないのだ。

肩の力を抜いて、空を見上げて。



どうも調子がよくない。



原因は色々とあるが、持病の腰痛が再発して運動量が減って、すっかり体力が落ちてしまったのが大きい。
せっかく自宅でも体を動かすことが習慣になりかけていたのに、また初めからやり直しである。

初めからやり直し、というとなんだかがっかりするというか、割と喪失感がある。
ああいままでやってきたことは一体何だったのだと空しい気持ちになる。

しかしまあ、人間、失う経験というのは定期的にしておいたほうがよいようにも思う。
いずれにしたって、これから年を取れば、もっと色んなものを失っていくわけである。
これだけは大丈夫だろうと思っていたものだって、何かの拍子になくなってしまうことがあるだろう。
そんな時にショックを受けて人生に絶望してしまわないように、普段から、何かを失って小さなショックを受けておくのは悪くないことだ。

それにしても、ぼくらはなぜこんなにも何かを失うことを恐れるのだろう。
体力が失われると、たしかにきつい。
何もかもが億劫になるし、仕事も集中できなくなるし、できることの量が大きく減ってしまう。
じゃあそれで全てが終わりなのかというとそんなわけではなく、減ってしまった許容量の中でできることは残っているし、再び鍛え直せば、少しは体力が戻ってくる可能性もある。
あるいは最悪体力が戻らないとしても、できることが極端に減った中で、できることだけに力を集中することで、今までとは違った世界が見えてくるかもしれない。
喪失はいつもチャンスとワンセットである。
だけど、それは失われてみないと見えない光景だ。
失われてみないとわからないからこそ、失うことは怖いのだろう。

しかしまあよく考えてみれば、ぼくらはもともと何も持っていないのである。
お金を持っているつもりでも、それはただの概念でしかないし、家や土地を持っているつもりでも、それも共同体の中でそういった取り決めがなされているだけにすぎないし、家族や子どもなんてそもそも「持つ」というとらえ方自体が間違っているようにも思う(それはただの比喩でしかない)。
だから、そもそも失うものなんて、本来はないのだ。

調子がよくないときは、何かに必死にしがみつこうとするよりも、肩の力を抜いて、口もポカンとあけて、空を見上げて、流れるままに任せ、どこかに漂着するのをじっくりと待てばいいのかもしれない。

ニュースの読み解き方を、知っていますか。

 

 

 

ニュースを見ると、不安になることばかりだ。

 

 

あきらかに悪いニュースのほうがまだマシで、それよりも、どこそこの企業が黒字に転換したとか、どこかの国の大臣が辞職したとかいった話のほうが厄介だ。

いま目の前の、子どもをそろそろプールに連れて行かなくちゃと思っている自分と直接関係のないニュースを聞かされると、ううんこれはいったいどういう意味のあるニュースで、見る人に何を伝えたいのだろう、と考えてしまい、そうやって考えてもよくわからない自分にうんざりする。

ニュースは残酷だ。

これは今のあなたに関係ない、あるいはすごく関係がある、そういった判断はしてくれない。

わかる人は活用できるし、わからない人はせっかくの機会を逃す。

なのに誰もその方法は教えてくれない。

 

思うに、ぼくの不安というのは、世の中がこれからどうなるのかとか会社はどこへ向かうのかとか家族は大丈夫なのかとか、そういったことが原因というよりも、そのための情報を正確に集められているか、そしてちゃんと対応できているかといったことへの自信のなさから来ている気がする。

ニュースを見ていると、はたしてこれは何が言いたいのだろう?という情報に大量に触れるので、自分の無知や理解力の低さをまざまざと感じさせられ、すっかり不安になるのだ。

 

 

じゃあどうすればいいのか、なんてことはさっぱりわからない。

ただ思うのは、いつでもどんなものにもアンテナを張って、大事な情報を逃してはならぬとずっと集中している余裕が自分にあるだろうか、ということだ。

はるか昔、就職活動をしていた頃、早々と銀行に内定を決めた同級生が、就職活動に必要なものは情報だ、と言っていた。

ぼくはそれを聞いてもまったくピンとこなくて、そのせいで余計に印象的だったのでおぼえている。

就職活動というのはちゃんと要項を読めばそこで何が必要とされているか書かれているし、何社かに1回は筆記試験や面接を受ける機会も得られるし、そこで自分の人となりや経験や志望動機を話すことができる。

いったいそれ以外に、どんな情報が存在するのか、よくわからなかった。

だけどまあ後になって振り返るに、就職活動を開始するよりもずっと前から、ぼくはコピーライターの勉強を始めていて、そこで広告クリエイターたちの話を聞き、すでにクリエイターとして働き出している人たちとも肩を並べて課題に取り組んでいたりした。

だから面接での志望動機も自分の言葉で話すことができたし、これまでやってきたことも、気になっている世の中の出来事も、それに関連づけて考え、伝えることができた。

それを情報、と言ってしまえるなら、なるほど情報はやはり重要なのだろう。

 

 

世の中には、ニュースや人から聞いた話や本に書かれたことをすぐに理解し、大事な情報を読み解いて、自分のものにできるかしこい人たちがいる。

一方でぼくはあっちこっちと手探りで動き回り、色んなところで頭を打ちながらほんの一握りの何かをつかむ、そういうことしかできない。

若い頃でさえそうだったのだから、歳を取ってから急に変われるはずもなく、相変わらずぼくはおかしな方向に進んでは頭を打ち、失敗ばかりを繰り返して生きている。

そんな人間には、世の中にあふれている膨大な情報なんて何の役にも立たないのである。

必要なのは、いま自分が頭を打っている現実をどうするかであり、それに関してできるだけ色んな位置から自分の状況を見て、どうにもこうにもならないと思いこんでいる状態から離れて、ひょっとしたらこんなことができないかとか、別の考え方はないだろうかとか、試行錯誤することなのだろう。

もちろんその時には色んな情報も必要だけれども、それは無闇にぼくの不安を駆り立てるような乱暴なニュースではなくて、古ぼけて倉庫の隅っこでほこりをかぶって眠っているような種類の何かかもしれない。

 

自分にとって必要な情報は、自分にとってだけ価値があることが多い。

だから誰も教えてくれない。

それはひっそりと息をひそめ、誰かに必要とされるかどうかなど意にも介さず、じっと時が過ぎるのを待っている。

むしろぼくはそれを見つけるためだけに生きているような気さえする。

 

だからまあ、ニュースを見るのはほどほどにして、あちこち体をぶつけ、色んなところをすりむきながら、他人にとってはガラクタのような宝探しを楽しみたい。