肩の力を抜いて、空を見上げて。



どうも調子がよくない。



原因は色々とあるが、持病の腰痛が再発して運動量が減って、すっかり体力が落ちてしまったのが大きい。
せっかく自宅でも体を動かすことが習慣になりかけていたのに、また初めからやり直しである。

初めからやり直し、というとなんだかがっかりするというか、割と喪失感がある。
ああいままでやってきたことは一体何だったのだと空しい気持ちになる。

しかしまあ、人間、失う経験というのは定期的にしておいたほうがよいようにも思う。
いずれにしたって、これから年を取れば、もっと色んなものを失っていくわけである。
これだけは大丈夫だろうと思っていたものだって、何かの拍子になくなってしまうことがあるだろう。
そんな時にショックを受けて人生に絶望してしまわないように、普段から、何かを失って小さなショックを受けておくのは悪くないことだ。

それにしても、ぼくらはなぜこんなにも何かを失うことを恐れるのだろう。
体力が失われると、たしかにきつい。
何もかもが億劫になるし、仕事も集中できなくなるし、できることの量が大きく減ってしまう。
じゃあそれで全てが終わりなのかというとそんなわけではなく、減ってしまった許容量の中でできることは残っているし、再び鍛え直せば、少しは体力が戻ってくる可能性もある。
あるいは最悪体力が戻らないとしても、できることが極端に減った中で、できることだけに力を集中することで、今までとは違った世界が見えてくるかもしれない。
喪失はいつもチャンスとワンセットである。
だけど、それは失われてみないと見えない光景だ。
失われてみないとわからないからこそ、失うことは怖いのだろう。

しかしまあよく考えてみれば、ぼくらはもともと何も持っていないのである。
お金を持っているつもりでも、それはただの概念でしかないし、家や土地を持っているつもりでも、それも共同体の中でそういった取り決めがなされているだけにすぎないし、家族や子どもなんてそもそも「持つ」というとらえ方自体が間違っているようにも思う(それはただの比喩でしかない)。
だから、そもそも失うものなんて、本来はないのだ。

調子がよくないときは、何かに必死にしがみつこうとするよりも、肩の力を抜いて、口もポカンとあけて、空を見上げて、流れるままに任せ、どこかに漂着するのをじっくりと待てばいいのかもしれない。