人生二周目の、歩きかた。


ぼくはいま、人生の二周目を歩きはじめている。



一周目の人生は、前半は無我夢中、後半は不完全燃焼、という感じだった。

若い頃は視野も狭いし、情報も足りないので、あまり選択肢が見えなかった。
受験勉強をがんばるか、がんばらないか。
希望の企業に就職するか、しないか。
業界の中で評価されるか、されないか。
会社から大事にされるか、されないか。
そこで勝ち残れるように努力することが当たり前だった。

ところが年を取ってくると、どうも自分は勝てるときもあれば負けるときもあることがわかってくる。
もっといえば、どれだけ努力したところで、たくさんの競争相手がいる世界で勝ち続けることはできないし、負け続けてでもしがみつきたいと思えるものがあるわけでもない、ということがわかってくる。
努力は裏切らない、というけれども、それは、努力をしたぶんは何かしらの力がつく、という意味では正しい。
だけど、努力をしたからといって競争に勝ち残れる、という意味ではまったくない。
なぜなら、他の人たちも同じように、努力は裏切らない、と信じてがんばるからである。
だから最後は結局、努力の総量だけではなく、努力のしかた、体力、時間、資金、協力者、そして運、そういった努力以外の要素によって勝敗が決まる。

頭のいい人たちは、そのことに早期に気づいて着々と環境を整えていったり、この戦場は今の自分の資源では勝てないと判断して早めに撤退していった。
ぼくのように視野が狭くて頑固な人間だけがその場から動こうとせず、いつか勝てるのではないかと信じて負け続け、勝者の養分となっていった。
それでも、自分はやりたいことができているから、と自分自身に言い聞かせて、ライバルたちに勝利を貢ぎ続けていたわけである。

それで、さらに時間が経って、少しだけ視界が開けてくると、いやこれはさすがにおかしいなと気づく。
気づいた頃には勝者たちとの差は大きく開きすぎて、彼らの姿は見えなくなってしまっているし、自分と同じように今の場所にしがみついていた人たちがどんどん消えていってしまっているし、何より戦いのフィールド自体が小さくなって、消滅しかけている。
自分から新たな戦いの場を探しにいって、参入していかないと、仕事自体がなくなってしまいそうな状況だった。

ぼくの不完全燃焼な感じはそこからはじまる。
今までは、自分が戦う場がはじめからあったし、そこで勝ち残るための基本的な戦法を教えてくれる先輩たちがいたし、切磋琢磨するライバルがいた。
ところが、どこを探しても、戦う場所が見つからない。
ちょっとよさげな日当たりには、すでに強そうなやつらが武装してたむろしていたし、じめじめしているけど居心地のよさそうな日陰を見つけて入っていると、金にならないからと評価を下げられたりした。
何をやっても中途半端なまま、だけど中途半端に何もかもが忙しく、とにかく不完全燃焼。
おまけに年を取って体力が落ち、育児も忙しく、ただただ時間だけが過ぎていく。
そのうち前向きな気持ちが失われ、愚痴っぽくなり、不機嫌になることが増えた。
判断力も弱くなり、簡単なことでも自分で決められなくなっていった。
こりゃもうダメだ。

そうやって、ぼくの人生の一周目は、バッドエンドで終わった。

目を開けると、いつもと変わらない光景が映っている。

でも、これが人生二周目のはじまりだ。
前半は一生懸命努力をしたが、後半は不完全燃焼で、一周目をバッドエンドで終えてしまった。
さて、どうしよう。

当たり前だが、二周目はハードモードである。
体力は一周目の半分しかない。
気力や集中力も半分。
一日のプレイ可能時間も半分。
容姿は半分以下。
レベルはもう上がらない。
おまけに武器は何も持っていない。

となると、打てる手はひとつだけ、できるだけ戦わないことだ。
できるだけ戦わずにすみ、かつ居心地がよくて、それなりに楽しめそうな場所を探して、さまようことだ。
ぼくはしばらくそんな感じで放浪をはじめた。

それでもやっぱり戦いは避けられない。
ただ、戦いのときに開かれるコマンドがちょっと変わってることに気づく。
今までは「たたかう」と「にげる」しかなかったところに「休戦を呼びかける」とか「相談する」とかいう新しい選択肢ができている。
武器屋や防具屋に行くと「交渉する」とか「ちょっと試させてもらう」とかいうコマンドが増えている。
あるいはプレイヤー同士が激しく争っているところを、そのへんを歩いているおっさんのふりをして素通りし、さっさとお宝にありつくこともできる。
また、同じ二周目プレイヤーは顔を見たらすぐにわかるので同盟を組むこともできる。
そうやって色々とズルをしながら放浪を続け、自分だけのお宝を集めていくのだ。

ただ、二周目の目的はお宝を集めきることではない。
一周目では見えなかった景色を眺め、できなかった寄り道をし、話したこともない人物と語りあい、最短ルートでのクリアを目指したときには味わえなかった楽しみに出会うことなのだ。

もちろんある程度は戦わないと先に進めない場面もあるし、悠々自適なスローライフなんて甘いもんじゃない。
繰り返すが、二周目は全ステータスが半分以下のハードモードなのだ。
だからこそ、残りの人生の中でやりたいことをしぼりこみ、あとのことは泣く泣くあきらめて、腹をくくる。
あんなこともこんなこともやりたかった、やれたはずだった。
そういう気持ちを全部捨てていくプロセスの中で、それでも、なんとしてもやっておきたいということだけを残す。
それが今ぼくがやっていることのように思う。

まあ、ひょっとしたら人生には三周目とか四周目とかもあるのかもしれないし、若くしてすでに何周も回ってる達人もいるのかもしれない。

が、そんなことを今は考えているヒマはない。

まだまだたくさん寄り道したいところがあるので。

音楽が止まっても、ダンスは続く。

 

 

 

ここのところずっと体調が良くなかった。

 

 

 

いつもなんらかの力によって地面に全身が吸いつけられているみたいで、何をするにも体がだるく、物事を進める力がすっかり失われている感じだった。

在宅勤務がはじまってから何度か辛いなと思った時期はあったがそれなりに乗り切ってきて、ここにきてようやく本格的なコロナ疲れかな、とも思う。

 

それで、ある朝、ちょっと気分転換をしようと思って、仕事をはじめる前に、学生の頃にやっていたダンスをしてみたら、これがとても気持ちよかった。

かける音楽はア・トライブ・コールド・クエストとデ・ラ・ソウル

ニュースクールと呼ばれた90年代のヒップホップ。

いま聴いてもやっぱり気持ちいい。

昔の振りを思い出しながら、こうだっけ、いやこうかな、とかやっていたら、30分ぐらいですっかり体があたたまってきて、汗もかいて、さあ今日一日をはじめるぞ、とスイッチが入った。

 

 

学生の頃は、音楽というものは神聖な存在だった。

仕事の前の軽い運動のためとか気持ちをリフレッシュするためとか、そういうおっさんのつまらない生活のための手段ではなく、音楽は音楽のために存在していた。

ダンスというものも、ぼくにとっては、音楽を崇拝し、その素晴らしさを賞賛する方法のひとつでしかなかった。

ぼくのダンスの先生もやっぱりヒップホップという音楽に魅せられてダンスを研究している人で、彼が教えてくれるダンスは、観衆の目を奪うような派手な動きやアクロバティックな技ではなく、リラックスして曲を楽しんでいるとつい体を動かしたくなる、あの感覚の延長にあったように思う。

なんというか、彼も、ダンスというものは音楽を楽しむ手段のひとつであって、その楽しさを表現したいと純粋に考えていた気がする。

それくらい、ぼくらは無防備にヒップホップという音楽が好きだった。

 

 

年を取ると、何かを無防備に好きになる、ということは、わりと危険なことだ。

そのためになんのリターンも期待できない消費にハマったり、あるいは好きなんだからいいじゃない、という理由でやりがい搾取にあったり、あるいは自分の残り少ない人生の時間を注ぎこんでしまって後には何も残らない、なんてことにもつながりかねない。

いつもぼくらは色んなことに対して投資と収益の差額を考え続けて生活している。

だから、好きだからいいんだと赤字を出し続けるような行為を避ける。

実際にそのとおりだ。

学生の頃にあれだけ多額のバイト代と勉強するはずだった時間をヒップホップへと投資して得られたリターンは、中年になってからの朝の軽い運動手段。

ただそれだけなのだ。

とんでもない無駄としか言いようがない。

まったくもって、何かを無防備に好きになるということのなんと危険なことか。

 

 

ダンスの先生もぼくも、そういう態度で音楽やダンスに接していても、それでは食べていけないことを十分に確信していたと思う。

先生はデザインの勉強をしていたし、ぼくはコピーの勉強をしていた。

ぼくはそこから文章の楽しさを知り、本を読み漁るようになり、ヒップホップを少しずつ聴かなくなり(ご存知のとおり、大量のラップを聴きながら小説を読むのはわりと難しい)、そのあとジャズをちょっと聴いている時期があったが、そのうちすっかり音楽自体を聴かなくなった。

その文章を仕事にすることができた時期もあったけど、いまやそれもすっかりやらなくなって、こうやってブログで書く時間が残っているだけだ。

つまり、ぼくの小さな人生経験の中では、好きなことへの投資に対するリターンはまったく回収できていないのだ。

じゃあぼくはヒップホップに出会うべきではなかったのか。

文章に出会うべきではなかったのか。

 

まあそんなことはさっぱりわからない。

当たり前だけれども、人生というのは計画どおりに行くものではないし、ぼくには家業を継がないといけないとかいった具体的なミッションもなかった。

別に何をやってもよかった。

そんな中で、いくら投資をしてもなんの見返りもないものが世の中にはたくさんあることを知り、その経験をもとに物事を見極めようとしたり、それでもやっぱり続けたいと思うものをわずかながら残したり、それをなんとか収益性のあるものにしようと四苦八苦したり、やっぱりダメだとあきらめたり、そういうことの繰り返しとしてのぼくの人生がここにあるだけだ。

 

ただ思うのは、そうやっていくつかの取り返しのつかない失敗をした結果として、いまのぼくがいることは事実であり、それでもまだ何かを無防備に大切にしたいと思えることがあるなら、もう投資とかリターンとか言わずに、それは大事にしていってもいいのじゃないかな、ということだ。

 

何を人生の収穫と考えるのかは、その人の自由なのだから。

大人の、遊びかた。



半年間やってきた仕事がひと段落して、ほっとしている。



まあ、ここからが本番だったりするので、何も終わっていない(むしろ何も始まっていない)。
だけど、ここまでの試行錯誤を振り返ってみて、たくさんの収穫があったなあと思う。
全体の運営についてもそうだけど、問いの投げかけかた、共同作業に関するアイデア、うまくいかないときの軌道修正のしかた、そして何よりもみんなが夢中になって取り組むための工夫、そういったことに関して新しい発見がたくさんあった。

最近は、ぼくがやっていることは遊びを考えることなのかもしれないと思いはじめた。
みんなが夢中になって遊べる遊びを考えて、やってもらって、ちょっとここが盛り上がらなかったねとか、ここはもっと難しくしたほうがやりごたえがあるよねとか、ここに収集要素があったらもっとやりこみたくなるよねとか。
で、みんながムキになって遊べたらそれだけ物事は先に進むし、かつ深くまで考えられたものになっていく。

仕事は遊びだ、というと怒る人がたくさんいそうだけど、それは、遊びは「やってはいけないもの」「無駄なもの」だと思っているからだろう。
ぼくはそうは思わない。
遊びとは、目的と手段が完全に一致した状態のことだ。
ごっこをしている子どもたちは、なにも、身体をきたえるためにとか、戦略性を身につけるためにとか、そういう別の目的のために鬼ごっこをやっているのではない。
ごっこをするという目的のためにだけ、鬼ごっこをしているのだ。
やるべきことと、やっていることが完全に一致している。
それは、ぼくらにとって、理想の状態じゃないだろうか?

仕事が遊びだというと怒る人は、何か、仕事というものがすごく神聖なものだと思っているんじゃないだろうか。
たしかに人の命に関わる仕事や、たくさんの人の生活をささえているような仕事は、その恩恵を受けられるぼくにとっても、とてもありがたいものだ。
だけど、医師をやっている友人たちは、仕事はおもしろいよ、とはっきりと言うし、生活基盤を作っている会社で働く知人も、楽しく働くことを一番大事にしている、と言う。
もちろん、医療は医師だけで成立しているものではないし、生活基盤はたくさんの人々の働きによって支えられている。
むしろ、彼らと違って、仕事は遊び、つまり目的と手段が一致しているもの、なんて思っていられない人たちがたくさんいることが問題なのだろう。

それでも、いや、だからこそ、自分がやっている仕事が、難しくて、苦しくて、辛くて、しかし何やら非常に重要なことであると思いすぎるのを、やめたいなと思う。

苦しくても努力を続けていれば、それが実ることはある。
そのことを多くの人が、人生の中で体験していることだろう。

でも、どれだけ努力しても、うまくいかないこともある。
やり方がまずかったのかもしれないし、努力の量が足りなかったのかもしれないし、そもそも目標の設定を間違っていたのかもしれない。
いずれにしても問題が、そこで発生する。
必死に努力してもうまくいかなかったとき、ちくしょう!これだけがんばってきた苦労と時間を返してくれ!と誰もが思う。
その選択をしたのは自分であって、努力を実らせられなかったのも自分なのだ。
なのに、誰かのせい、何かのせい、自分以外のせいにしてしまう。
いや、まだ自分以外のもののせいにできるならマシで、すべて自分の責任だと強く思いすぎるのが一番ダメだ。
責任なんて誰も持てない。
やってみたけど、うまくいかなかった。
あるのはその事実だけなのだ。

結局、世の中にはたいした意味なんてなくて、そこには神聖な仕事もなければクソみたいな仕事もない。
いま何をして、どう生きるか、それだけだ。
だったら、この瞬間をどれだけ納得いくように生きるか、そのことだけを追求したいなあと思う。
一緒に仕事している人たちは楽しんでいるのか、取り組んでいることは面白くてやりごたえがあるのか、何より自分は夢中になれているのか。
たぶん、ぼくは最近、そういう視点で仕事をしているように思う。

子どもと違って、大人を遊びに誘うのはむずかしい。
それは何のために必要なのかとか、どれだけ儲かるのかとか、どんな意味があるのかとか、本当は興味があるくせに色々と理由をつけて動かない。
そんな大人たちが、つい夢中になってしまうような遊びをもっと考えていきたい。

さあ、まだまだ遊ぶぞ。