偶然のできごとには、興味がない。



先日、東京から大阪に新幹線で戻るときに、架線が切れたらしくて途中で停止し、5時間のあいだ止まった車両の中にいた。



新しい話題に敏感なブロガーだったらこれはおいしい経験だと思うのかもしれないが、実際にブログに書こうかな、と思ったのはもう大阪に戻ってきてずいぶん時間が経ってからだったし、書こうかなと考えた瞬間になんだかめんどうになり、結局何も書かなかった。

それでだいぶ時間が経ってから、止まった車両でたまたま隣り合わせになった方から連絡をいただいて、その方とは新幹線が止まってるあいだ他にやることもなかったので二人で何時間も仕事の話や人工知能の話をして退屈をまぎらわせていたのだが、その経験をラジオ番組に投稿したら読んでもらえました、ということだった。

トラブルに居合わせることをおいしいと思うのはブロガーだけではないらしい。

その連絡をいただいたときにぼくはPTAの行事に参加していて、ぼくは自分のボスも前のボスも女性だったし女性ばかりの職場に出向していたこともあるので母親だらけの集まりというのも平気だと思っていたのだが、このPTAというのはいまだになじめなくて、それはこちらがいくら平気でも向こうが平気じゃないからなのだが、今日の先生が話してくれた国語や社会の話はちょうど自分の関心があることと一致していて、とても役に立った。

しかしよく考えれば、国語も社会も算数も理科も英語も音楽も体育も図工も、だいたいのことは生きていれば関係あり続けることのような気がするし、それはそういう教科を学んできた人間たちがこの世界を作り出しているのだから当たり前なのである。


ぼくは偶然とか奇遇とかそういうたぐいのものを必要以上にきゃあきゃあ言ってもてはやすのはまったく好きではなくて、だれそれさんはだれそれさんと同じ誕生日なんだよねきゃあきゃあとかというけれどたった365通りしかない誕生日の中でたまたま一致していたからといって何なのだと思う。

もうちょっといえば誕生日のことについてうれしそうに話す人がとても苦手で、今日オレ実は誕生日なんだよねとか、あいつ誕生日だからみんなでお祝いしようぜとか、みなさんお祝いのメッセージありがとうございますついに私も不惑とかなりましたが色々と惑うことも多い日々をすごしていますけれどもなんとかやっていますのは本当にみなさまがあたたかく見守って下さるからでして本当にありがとうございますみんなー愛してるぜー八千代ー!今日は早く帰ってたくさん愛し合おうぜーベイベー!みたいな文章を見ると吐き気がしてきてそっと画面から目をそらすのである。

しかし、さていまぼくが書いたようなことも、ぼくにとってはそれなりにほっこりしたり喜ぶべき偶然ではあっても、はっきりいってどうでもいいことなのである。

どうでもいいことを一人語りしているやつよりは、まだ八千代とどうでもいいオレ様の誕生日の喜びを無理やり共有しているほうがましだという見方もできるだろう。

もうちょっといえば、この世に起きるできごとのうちほとんどのことはどうでもいいことであって、しかしそのどうでもいいことのうち、たまたまどうでもいいはずの日が、かけがえのないオレ様の誕生日だったということについでだけ、オレ様と関係あることがあった、ということなのだろう。

ぼくたちはそうやって、無数の情報の中から自分に関係のあることだけを選びとって、それを喜び合ったり押しつけたりラジオに投稿したりブログに書いたりしているのである。


世の中にはよく気がつく人たちがいて、ああ今日は君の誕生日だったよねとか、もうすぐ部長の誕生日ですよねとか、そういう情報をこまめに発信するので、ぼくたちは周囲の人々というのも自分と同じようにどうでもいい世の中に存在している一方で、自分たちはどうでもよくない存在でもあるのだということを無理やり伝えられる。

繰り返すが、この世の中におけるほとんどのできごとはどうでもいい一方で、ぼくたち一人一人の人間はけっしてどうでもよくない存在なのである。

このことはぼくにとってはまあまあ当たり前のことなのだが、わざわざ今日は課長の誕生日ですよねと言われるせいで、お前はそんなことも知らなかったのか、このいつも愚痴ばかり垂れている割に何も積極的に新しいことに挑戦しようとしないこのクソ課長だって実は一人の人間であって一個の生命として一生懸命に生きているということを知らなかったのか、この鈍感で空気が読めなくて冷たいやつらめと、そういうメッセージが飛び交っているようにしか見えない。

もちろんこれは考えすぎであり、誕生日メッセージを飛ばしあっている人たちというのは心からの善意でやっているのだろうし、ここまで敵意の対象にされる必要もまったくないのだけれども、しかしぼくらの世界というのはそうやって、わざわざ「ねえねえオレたちってさ、色々あるけどさ、実は一人一人が人間であって、かけがえのない存在だってこと、覚えているよね?」と確認しあう行為を必要としているほどに、一人一人の人間がフォーカスされる機会を失っていっているような気がしてならない。


それと同じような意味で、ぼくは趣味という言葉もあまり好きではない。

何か自分が懸命に取り組んでいるものを指して「趣味」と言ってしまった瞬間に、そのものはただの「趣味」でしかなくなり、自分の外に放り出されてしまう気がする。

まあ自分は素人だしこの程度だよな、というようなはっきりとしたあきらめの色によって塗りつぶされ、心の中にそっと隠されていた憧れや欲望や執着は干からびてしまい、その抜け殻だけをいびつな形につなぎあわせて完成させられた「趣味」という名の作品を見ても、悲しみを感じこそすれ、ほっこりした気持ちになれるなんてのはあまりにも解脱がすぎると思う。


ぼくらはもっと自分の執着に対して執着したほうがよいし、他人の幸せに対しても明確に嫉妬したほうがよいのである。

そんなわけで、新幹線でのできごとを投稿して見事ラジオで取り上げられた隣の席の人物には心より嫉妬申し上げる。




ちなみに今日はぼくの誕生日ではない。