自分あてのメッセージに、飢えている。



スマホをいじっていないと気がすまないようになってから久しいのだが、いったい何をそんなにいじることがあるのかといえば、だいたいは仕事関係のメッセージのチェックと返信をしたあと、ニュースを見るかファイヤーエムブレムをしているだけで、そうしているあいだにまたメッセージがやってきてそれに返信をしている。

結局、ぼくはそれを望むにせよ、望まざるにせよ、誰かからぼくあてにやってくるメッセージを待っていて、そのあいだに別のことをして時間をつぶしているだけなのである。

これはスマホだけに限られた話ではなくて、ぼくの人生というのも似たようなものである。

会社からの評価が言い渡されてから、次の評価を受けるまでの1年間、他にすることもないから働いているだけであり、得意先から仕事をもらってからこれを完了させて何らかの感想をもらうまでの間、他にすることもないから懸命に作業をしているだけであり、妻と子どもからおかえりと言ってもらうまでの間、なんとなくサラリーマン面をしてバタバタしているだけである。

あるいは生きることだって、この世に生を受けてから、もう死んでもいいんだよというメッセージを受け取るのをずっと待ち続ける行為なのかもしれない。

ただ、最近はどうも、こういう考えかたに慣れすぎてしまっていて、自分あてのメッセージがやってくる、そのことばかりで頭がいっぱいになっている。

本当にぼくらはメッセージを受け取るためだけに生きているのだろうか。


これについてはイエスと言えるかもしれない。


だが、それは、ある日失くしたと思っていた自転車の鍵がひょっこり出てきて夫婦で笑いあったり、新幹線でたまたま知り合った人とのやりとりがラジオで紹介されたという連絡が来たり、子どもが図書館に行きたがるのに嫌々ついて行った先ですてきな本に出会う、そういうメッセージだ。

こういったメッセージたちは、もちろんじっとしていてもやってこないけど、追い求めたからといって手に入るわけでもない。

ただ、時折、ぼくらが思いもしない方法でやってくる。

これに出会う方法はたったひとつしかない。

それは、自分あてのメッセージを見逃さないように耳をすませ、身の回りで起こることに目を配り、自分のできることをやり、機嫌よく暮らし、悲しいときはしっかりと悲しみ、腹が立つときはちゃんと腹を立て、大切にしていることを堂々と大切にして・・・


やがて何かが聞こえてくるまで、ただ気長にじっくりと、その時間を楽しみながら待つことだけなのだ。