アレを、ナニして。



年をとったせいなのか、忙しくて睡眠時間が短くなったせいなのか、グーグルに記憶力の大部分を移管してしまったせいなのか、たぶんその全部なのだろうけれど、すぐに正確にそれを指し示す言葉や人の名前が出てこないことが増えた。



気がつくと、年をとった政治家みたいに「いわゆるアレで・・・」「その方向でナニして・・・」と言っている自分がいる。

それでも通用しているのは普段の仕事がある程度標準化されていたり、共通認識を持って進行しているからなのだろう。

全く知らない人に急に、すみませんアレについてなんですがね、その、ちょっとナニしませんか、なんて話しかけることはまずない。

そのうえ、アレとかナニとかいうのは言葉が出てこない場面だけでなく、ストレートに言うとキツく聞こえたり、あるいは説明が面倒だったりするときに便利だったりするので、余計に助長される。

すみません実は弊社の担当の人間がインフルエンザをアレして自宅でナニしてまして、もしアレでしたら来週までナニしてもらえるとありがたいです、という具合である。

そうやって便利に使っているうちに、ちゃんと言わなきゃいけないことまでナニするようになり、正確な言葉を使う意識が弱まっていく。

これは決して悪いことだけではない、という見方もあるだろう。

仕事や家事と同じようにコミュニケーションも省略していくことで物事を進めるスピードを上げたり、効率化することができる。

ナマツー、カラツー、ポテツー、エダマメワン、のようなものである。

省略していった先に待つのはその機能自体の消滅である。

生産性がどうとか投資効率がどうとかばかりが注目される世の中だから、さまざまなコミュニケーションとそこで使われている言葉が消滅するスピードはどんどんナニしていくのだろう。

そのこと自体を良いか悪いか評価するのもアレだが、大事なことは、そうやってコミュニケーションのナニが加速度的にアレしていくことだ。

たとえば敬語や丁寧語が使われなくなったり、常用漢字がどっと減ったり、おじぎをしたり優先座席をナニしたりする行為もナニしていくのかもしれない。

人の心のあり方もアレしていくかもしれない。

相手の気持ちをナニして回り道であっても丁寧に物事を進めることよりも、できるだけいろんなアレを省略して素早い問題解決をアレすることのほうが人間として素晴らしいと思われるような世の中になっていくかもしれないし、すでにナニしてしまっているかもしれない。

ひょっとするとそうやって、人間のアレと機械や人工知能のアレはどんどんナニしてゆき、そうやって両者の境はゆるやかにアレして、地球はひとつの知能生命体へとナニしていくのかもしれない。



さて、ぼくらの「人間らしさ」は一体どこへとアレしていくのだろう。



アレがナニしてナニするアレは、アレでナニなアレなのだろうか