もっと、ぼうっとしたい。

ぼうっとしていることが減ったな、と思う。

年を取ると、いつも体のどこかがが痛い。どこも痛くない、という日はほとんどない。たぶんそのせいで、ぼうっとしようとしても、痛みのほうが気になってしまって、それを緩和する方法について考え始めてしまう。あるいは、ちょっと時間ができたと思ったら、ついパソコンやスマホを触ってしまって、頭を休めることがない。
ぼうっとするのにも、なかなかの覚悟がいるのである。

若い頃はかなりぼうっとしていたように思う。
ぼくはだいたいどんなところにいても妄想ができる性格なので、ちょっとでもヒマができると勝手に心がどこかに出かけていった。それでも、普通は大人になったらそういう妄想癖もおさまるのかもしれないが、企画を考えることを仕事にしたせいで、正々堂々とぼうっとできるようになってしまった。そのせいで、ぼくはかなりぼうっとした大人になってしまったのである。
いまだに電車に乗っているときにぼうっとしていて駅を降り過ごすことはしょっちゅうあるし、考えごとをしながらコーヒーを口に持っていき、飲みそこねてこぼしたり(ただし、これはだいぶ減った)、人と話している最中に、ふと考えがどこかに行ってしまって、話を全然聞いていないことも多い。
それでも、良い企画ができれば許される、という環境だったのが、今考えると大変恵まれていたなあと思う。

それでまあ、じゃあなんでぼうっとすることが減ったのか、というのを考えるのはちょっとつまらなさそうだからやめて、あらためて、もっとぼうっとする時間を増やしたいなと最近は感じる。
まずはパソコンやスマホから離れる、というのが一番よさそうだ。あと、なぜパソコンやスマホを触ってしまうかと考えるに、なんとなく「もったいない」という気持ちがあるような気がする。
何もせずにぼうっとする時間があるなら、その代わりに何かもっと有意義なことができるのではないか、と思うわけだ。
しかし、実際はたいして自分と直接関係もないニュースを読んだり、誰かが誰かに対して怒ってる様子を見たりしているだけで、何かが生み出されているわけでもない。何も生まれないなら、ぼうっとしていたほうがマシじゃないだろうか。
いや、むしろ、ぼうっとしている時間こそが、何かを生み出す資源になるような気がする。何の根拠もないけれど。
よくアイデアは何かと何かの組み合わせだというけれども、これはちょっと語弊があって、だからといって無理やりに組み合わせていればいつかは良いアイデアが生まれる、ということは経験上、ほとんどない。大事なのは組み合わせることよりも、その前の、なんというか問題意識のようなものなのだと思う。
問題意識、というとなんだかたいそうだが、ああこういうことができたらなあとか、ここがなんとかなったら面白いんだけどなあとか、そういうすごく個人的なモヤモヤした感じが強くなってくると、それだけ異質なもの同士がくっつく力が強くなる気がする。
そして、このモヤモヤした感じを生むのが、ぼうっとすることなのである。
で、ぼうっとする代わりにパソコンやスマホを触ってしまうと、このモヤモヤした感じが簡単に解消されてしまって、何かと何かをくっつける力が弱まってしまうような気がする。

そういえば、スマホは、スマートフォン、の略である。
スマホは人をスマートにしてしまう。
しかしスマートな人はぼうっとすることができない。
今、ぼくが欲しいのはスマートな時間ではなく、アホになる時間なのである。
しかしアホになるためには工夫が必要な時代である。

色々と試していくしかないなあ。