がっかりされても、いい。


期待を裏切る、という言葉はひどく悪い意味で使われていて、お前はみんなの期待を裏切ったんだ、とか言われると自分はなんだかとんでもない犯罪を犯したように聞こえる。



しかしよく考えればぼくらは常に誰かの期待を裏切って暮らしていて、後ろ姿を見てイケメンかもとか、営業かけたら何か買ってくれるかもとか、電車の席を譲ってくれるかもとか、勝手に期待をされて勝手にがっかりされてるのだ。

ややこしいのは、そういうのを他人から勝手に思われるだけでも厄介なのに、自分で勝手に思い込んでたりして、それが困ったものである。

家族の期待を裏切ってしまったとか、上司の期待を裏切ってしまったとか、実際はどこまで期待されてたのかわからないのに、勝手に期待されてたことにして、勝手に裏切ったことにしてしまっている。

まあ誰だって、自分が誰からも期待されてないと思うのは辛いし、かといって期待されすぎるのも辛いので、本人なりに心地のいい期待され具合というのをなんとなく決めて、キープしていることが多いように思う。

この場合、一体この「自分のことを期待している」人物は誰か。

それはもちろん自分自身である。

知人で、自分はあえて苦手な領域を減らそうと努力してしまうクセがあって、その領域がだいたいなんとかなりそうになってくると、今度はまた別の苦手な領域のことが気になる、これを繰り返しているせいで、いつまでも成長実感がなくてモヤモヤする、と言ってる人がいて、これはぼくもそういう部分があるので他人事じゃないなと思った。

しかし、こういう自分自身に対する投資配分は、自分自身が決めているだけであり、それもこれも自分はまだまだ成長していけるから得意領域は後回しにしても大丈夫だろうと、勝手に自分に期待している結果なのだ。

それで思ったのだが、ぼくは小さい頃から好きな食べ物を最後に置いとくタイプで、それは長男ならではのおごりだったのだ。

敵がいないからこそ悠長に大事な唐揚げを残したままにしていられただけであり、つまりはいつやられるかわからない状況で、先に苦手なものから克服しなくちゃなんてのは見当違いもいいところで、まずは得意領域を必死に深めていって、そこから後のことを考えるのが常識である。

苦手をなくそうとするのは、非常にぜいたくで余裕のある行為なのだ。

これは余命が短くなってきたぼくにも当てはまるわけで、さてそろそろ苦手な財務会計の勉強でもしとかなくちゃな、なんてことは死んでからゆっくりやればいいのである。

それで、好きなことや得意なことばかり取り組んでいるうちは、自分にがっかりすることもあまりなくて、なぜなら自分に対してそれほど期待してない。

好きだし、得意だし、だいたいこのぐらいいけるだろう、とわかってるので大きな計算違いもしない。

もちろんそればっかりやっていると退屈になってきて、それで刺激を求めるあまり人は冒険してしまう生き物だが、やっぱりその時は気をつけておきたい。

その冒険は自分で勝手に始めたもので、だから勝手に必要以上に期待しすぎることも、必要以上にがっかりしすぎることもないのだ。

他人の反応なんてなおさらである。