仕事は、好きだ。
仕事にはいつもお題があって、アイデアを考えるのは面白いし、色んな人と関わるのも楽しいし、新しいことを学ぶこともできる。
家族ができるまでは、僕は一年のうちでちゃんと休むのは正月くらいで、別に休みたいとも思わなかった。
やるべきことも、やりたいことも、いくらでもあった。
特に休日の職場は静かで、平日のあいだに積み残した作業を消化したり、やりたくてもできなかった企画を考えたり、ついでに前から読みたかった本も読んだりと、かなり貴重な「バッファー」だった。
いま考えてみると、若い頃の僕には何か特殊な能力があったわけではなく、会社からすれば「たいした人材ではないが、いくらでも働くことできる」ことに価値があったのだと思うし、自分も無意識にそこに依存していたと思う。
だから僕は自分が持っている時間のほとんどを仕事に費やしていたし、それが当たり前だと思っていた。
★
先日、こんな面白い記事を拝見した。
正社員の「無限定性」とは、濱口桂一郎氏のいう「メンバーシップ型雇用」の特徴で、勤務時間、勤務地、職務内容について限定性がないという条件を引き換えに高い賃金を得るという点が、転勤のない準総合職や一般職、さらに職務内容がある程度限定されたパート労働などとは異なっている。夫が無限定的な働き方(残業あり、転勤あり)ができるのは、そのパートナーが働いていないか、あるいは限定的な働き方をしている場合である。
男女雇用機会均等法では「共働き」を実現できない / 筒井淳也 / 計量社会学 | SYNODOS -シノドス-
これは本当にそうだなあと思う。
僕は「いつでもどこでもなんでも働きます」という「無限定な働き方」を前提にして仕事をしてきた。
深夜まで働くのが当たり前、急ぎで東京まで打ち合わせをしにいくのが当たり前、どんな無理な仕事でも対応できるのが当たり前、どれだけ遅くなっても夜の付き合いも良いのが当たり前、そして周りもそれが当たり前。
そういう柔軟な動きができない人は「仕事ができない人」と判断されやすく、そう思われないためには相当な努力が必要だったりする。
そしてこれらはすべて「自分に与えられた時間のほとんどを仕事のために使えること」を大前提として成立しているのだろう。
仕事の中での給料アップも、出世も、自己実現も、まずは自分にたっぷりと時間がないとどうにもならないのである。
しかしまあ、家族ができればそういうわけにはいかないし、働いていると、仕事に対する自分自身の考え方というのも変わってくる。
仕事以外にも色々と大事にしたいことが出てくる。
いつまでも「無限定」に働くわけにはいかなくなる。
★
となると、今までたっぷりと時間をかけてやってきた仕事を劇的に短縮しなきゃいけない。
これはなかなか難しい話で、日によっては事務作業や調整ごとだけでいっぱいいっぱいになってしまって本業にとりかかる時間がなくなり、家族が寝静まってからこっそり家で企画を開始し、寝不足のまま出社したりする羽目になる。
僕は数年そんな状態を続け、どんどん疲れていったし、どれだけ努力しても、時間を「無限定に」使える同年代の人間の仕事量に勝てない辛さで、気持ちも萎縮していった。
しかし最近は、開き直っている。
自分にできることだけをやることにした。
仕事の量は全盛期の半分近くに減らしたし、時間と労力だけがキーファクターになりそうな仕事は断ることにした。
その代わり、自分の仕事に付加価値を乗せることをすごく意識するようになった。
皮肉なことに、これまでの「無限定な働き方」のおかげで色々とアイデアの引き出しが増えたので、それをガチャガチャやって、ちょっと今までとは違う答えを出せたりするようになっている。
そうやって「考えること」に限られた時間を多めに割り振るようにすると、アラ不思議、とはいかなくてもちろん失敗することもあるのだけど、でも今までよりもずっと良い仕事ができたりする。
だから時間がなくても、今まで以上にたっぷりと取材をするし、色んな人と議論をするし、それらをまとめてアイデアにする作業を丁寧にやる。
そして他にはない価値のある仕事を作るよう、全力を尽くす。
★
とまあかっちょいいことを言ったけど、これはまだ試運転中であって、いつまで続くかわからない。
面と向かって言われたことはないが、作業量を減らして早く帰る僕に対して、陰口を叩いてる人もいるかもしれない。
また、そうやって会社の仕事時間をうまく減らせたとしても、僕にとっての仕事の時間は結果的には減らないままかもしれない。
なぜなら、もともと僕は「仕事と仕事以外のことの境界線があんまりはっきりしていない」人間だからである。
家事や育児を手伝っていても、こうやってブログを書いていても、いつもどこかで「これ、何かに使えねえかな」という下心たっぷりで暮らしているのだ。
もうこうなってしまうと「無限定」に働いているのと変わりはない。
でも同じ「無限定」な働き方ならば、僕は喜んでこっちを選びたい。
子供のオシッコとウンチまみれの現場からじゃないと思いつかない、楽しいアイデアというものは、あるからだ。