答えを出すことだけが、答えではない。







今年引退した、元銀行マンと飲む機会があったのだけど、

そこで、ややショッキングな言葉を聞いた。



あんまり文脈は覚えていないんだけど、広告業界にしても、他の業界にしても、まあ市場規模はあるけど結果的にはたいした純利益を生み出してないような業界、というのがたくさんありますけど、それらは今後どうなっていくでしょう、という非常にピュアな質問を僕がした時だと思う。

半沢直樹ではないその銀行マンは、ほとんど考える間もなく、こう答えた。



「ま、社会貢献だからねえ」



結局そうなんだな、というのをあらためて思った。

きわめて元銀行マンらしい発言であって、昔のオレなら、この野郎、高いところから見下しやがってと一発殴ってやるところなのだが(ごめん、一回言ってみたかった)、実際にこんなに世の中によくわからぬ商品とサービスと仕事と職業があふれていて、それでも何らかの生態系が成立している状況を一言でいうならば、多くの人々の雇用を生み出すという「社会貢献」というのが一番近い気がした。

結局は、稲作システムの浸透による食料の安定化から始まった人口増加の勢いを、長期にわたってやんわりと抑えたりなだめたりするには、そういった間接的なアプローチが一番効果的なのだろうと思うし、「1人あたりの食いぶち」をやんわりと制限しておかないと、限りある資源はすぐに枯渇してしまって、すぐに人間同士の本当の意味での食い合いがはじまるのだろう。

そういった状況を無視して、やれ海外ではもっと個人が自立してるだの、日本人の社畜ぶりは恥ずかしすぎるだの言ったって、何の効力もない。

狭い土地の中でお互いに遠慮しあいながら暮らし、それぞれの満たしたい願望や欲求をファンタジーの世界に没頭することで処理してきている僕らの現状をちゃんと認識しておいたほうが、ずっと前向きな議論ができるんじゃないかなと思う。





何を隠そう、僕自身、「かっこわるい日本人」というものを長いあいだ否定して生きてきたと思う。

学生時代にはヒップホップばっかり聴いてたけど、日本語ラップを聴くとサル真似すぎて背筋が寒くなったし、表現者になろうと思ったのも「ネズミ色のスーツを身にまとった無個性な人々」に対するカウンターみたいな意識も多少はあったと思うし、そして働き始めてからも、そのネズミ色の肉片の一部として吸収されていく自分自身に対する嫌悪感が増していくのが本当に辛かった。

しかしネズミ色というのは、この資源の少ない国においては、自分の身を守るためのれっきとした保護色であり、意味のわからない飲み会を延々と繰り返していくプロセスこそ、「この世における本当の答えに気づく瞬間」をできる限り延期させ続けるための知恵なのだということもわかった。

そういう意味では元銀行マン氏はその真実に気づいている上で長年にわたってどうでもよいセレモニーを繰り返してきたわけで、その忍耐力というか達観性たるや、おそろしいものである。



さて、僕はここで、この世の矛盾をつまびらかにしたいとか、別に思っていない。

むしろ「ムダなものを作り出すことこそ社会貢献」という文脈が自分の中に明確に生まれたことを素直に喜びたいなあと思う。

最近は色んな場所で「世の中の課題を解決する仕組みや価値を提供して、社会に貢献したいです!」というセリフをよく聞くし、自分もどさくさにまぎれてそれに近いことを口走ったりする。

しかし、どうやら、課題を解決することだけが社会貢献ではないようである。

むしろ、多くの人々なり事業なりがその解決に乗り出したくなるような課題なりテーマなり命題なりを作り出すことだって社会貢献のようなのである。

もちろん、原発事故なり戦争なり、明らかに迷惑なできごとに対してその考え方を導入するつもりは僕にはない。

だが、ことコンテンツとよばれるものには、これが当てはまると思う。





僕はこれまで、世の中のあらゆるコンテンツが多くの人々の有意義だったはずの時間や労力を大量にうばっていくことに対して、すごく背徳的な気持ちを抱いていた。

でも、たぶんそんな必要はなかったのだろう。

この世界というものは、ショートカットして正しい道を進むことだけが重要だというわけではないのだ。

世の中とは、腸の表面積がテニスコート一面分くらいあるのと同じように、きわめてコンパクトに収納されているように見えるけれども、実際はムダなヒダヒダが大量に格納されている構造を持っているのだ。

そのヒダヒダを作っていくことに「社会貢献」という大義名分が与えられた時、僕らはもっと自由に色んなことを表現できるようになり、それを堂々と開陳することができるようになる。

そして、ここが非常に僕にとっては重要なのだけど、コンテンツというムダの集合体を媒介にすることで、人と人がつながっていくことを、はっきりと肯定することができると思う。


そういう心の動きの1つを「愛」と呼ぶのだと思うのだが、さてそのあたりを僕がちゃんと理解するためには、ヒダヒダだらけのムダなコミュニケーションをもっと重ねていく必要があるだろうなと思っている。