しがらみを、愛することができるか。

 

 

 

生きていると、面倒な「しがらみ」がどんどん増えていく。

 

 

 

さっきまで、このエントリを読んでいた。

 

僕と妻の結論 - Everything You’ve Ever Dreamed

 

 

僕は、ちょうど今日、新幹線の中でふと

もし自分の両親を介護しなきゃいけなくなったら

どうなるのだろうと想像していたところだった。

 

 

妻の両親も健在だから、僕らは4件の

潜在的介護案件を抱えていることになる。

それに加えて、自分や妻だって

いつ不慮の出来事で人の世話になるかわからない。

 

年を取っていくと

色んな人の面倒を見たり、見てもらったり

自分以外の人間との関わりが

勝手に増えていってしまう。

 

会社のメンタルヘルスチェックによって

自由を一番大切にしていると

診断を下された僕にとっては

なかなか厳しい前提だ。

 

だけど、僕はいま自分にとっての

「自由」という定義をし直そうとしているところ。

 

 

誤解を恐れずに言えば

「自由」というのは

「受け入れる」と同じ意味なんだと思う。

 

色んなしがらみの中で

人間は、他者からさまざまな影響を受け

そして理不尽な介入を受け

どんどん疲労していく。

 

それは、人に介入されることを

「イヤなこと」「辛いこと」だと思うからなのだ。

 

もし、他人に関わっていくことを

「イヤなこと」と思わなかったら?

むしろ楽しいことだと思ったら?

 

きっと、その人は物理的には

自由ではないのかもしれないが

心はずっとのびのびとしていて

いつもワクワクしていられるのじゃないだろうか。

 

 

だからこそ、自分の周りの「しがらみ」を

受け入れてしまう。

それ自体を愛してしまう。

 

そんなことが大切なんじゃないかなと

頭でっかちに思っている。

 

けっこう難しいことを

言っているような気もするが

そのへんは年を取って

妙に「こすれて」きている自分には

それほど違和感はないのである。

 

やっぱり、年を取るのは楽しいことなのだ。