やってみるなら、本気で。

「趣味なら、本気で。」というキヤノン一眼レフカメラのキャッチコピーがずっと好きだ。

本気でやるからこそ、趣味は楽しい。
これはすごい真理だ。
というか、実はだいたいのことは、そうなんじゃないだろうか。
「仕事なら、本気で。」でも「家事なら、本気で。」でも「サボるなら、本気で。」でも、なんでも通じるような気がする。
もっといえば「生きるなら、本気で。」ということなのかもしれない。

それでまあ、ぼくはちゃんと本気で生きているかなあと、ふと胸に手を当ててみる。
で、40歳をすぎたあたりからは、それなりに本気でやっているんじゃないかな、とは思う。
特に感染症の広がりは、それに拍車をかけた気がする。
世の中がこれからどうなるかわからない、という状況は、けっこう楽しかった。
答えが見つからない世界の中で、とにかく色々考え、色々試す日々は、好奇心を満たしてくれた。

だから、実際のところは、年を取って人生の残り時間が少ないことに気づいたことで本気スイッチが入った、というような感じではない。
あれ人生ってまだまだ面白いことがあるかも、と気づいた、というのが近いように思う。
まあ、新しいことに取り組むと傷つくことも増えるし、落ちこむことも多いんだけど、それよりも好奇心が勝っているように思う。

じゃあ40歳になるまでも、ぼくは本気で生きてきたかというと、これはかなり怪しい。
別に手を抜いていたというわけではないけど、波があったように思う。

一番適当に生きていたのは大学生の頃だろうなと思う。
第一志望ではなかった大学に入学して、それでもまあ通いはじめたら楽しいこともあるかなと思っていたのだけど、どうもなじめなかった。
今考えると、ぼくのほうに問題があって、たぶん大学に期待しすぎていたのだと思う。
あの頃はまだ、ぼくは他者に自分の人生をゆだねていた。
いい大学に入学すればいい人生が送れる、いい会社に入社すればいい仕事ができる、そんな風に世界をとらえていた。
でも、大学というところは、こちらから行動を起こさない限り、何も新しいものを提供してくれない場所だった。
だから、そもそも何に本気になればいいのかもよくわからなかった。
打ち込むことがないというのはなかなか辛いことだ。
それで、アルバイトに精を出したり、そのお金でレコードを買い漁ったりして、エネルギーを無駄に発散させていたのだろう。
ただまあ、そこで長い時間モヤモヤとしていたおかげで、コピーライターの仕事と出会えたのだから、まったくもって無駄だったというわけじゃないのだろうけれど。

あとは高校生の時も、本気で生きてなかったよな、と思う。
高校生活はとても楽しかったけど、周りのみんなは楽しむのはほどほどにして、実は一生懸命勉強をしていた。
ただ、みんな勉強をしていないふりをしてみせるので、ぼくは全然気づかず、ヘラヘラと暮らしていた。
あの時、ヘラヘラするのをもうちょっと我慢して、もうちょっとだけ努力していたらなあ、と今でも思うことはある。
だけどまあ、それも含めてぼくの人生なのでしょうがない。
そういえば、大人になってから同窓会があって、医者や弁護士ばかりが集まっている中で、お前面白い仕事してるじゃないかと珍しがってもらえて、ちょっとうれしかった。

それで、よく考えてみると中学生の頃も、途中までは全然本気で生きていなかった。
学校が荒れていたこともあり、とにかくひどかった。
なんだ、つまり、ぼくは若い頃、ほとんど本気で生きてこなかったわけだ。

別にそれが良いとか悪いとかは思わない。
今、本気で生きていて、人生を楽しむことができているならそれでいい。
それにきっと、これから先、また本気を出せなくなるような時期も来るかもしれない。
そういう時に昔を振り返って、いやあオレってあの頃、年がいもなくけっこうマジでやっちゃってたよね…だけど楽しかったよね…と思い出して温かい気持ちになれるように、今はできることをやっていきたい。

それが良いとか悪いとか、そういうことは置いといて。

氷河期世代だから、できること。

氷河期世代はこれから高齢者になった頃に切り捨てられるのではないか、という話題に対して、本当にそのままでいいのか、というエントリをいくつか拝読した。

p-shirokuma.hatenadiary.com
nyaaat.hatenablog.com
www.ituki-yu2.net


ほうっておくと、本当にそうなるかもしれない

若い頃に、労働組合で「成果主義への移行」を受け入れるかどうかという投票があった。
ぼくは反対票を入れた。
年功序列だからこそ、年を取るまで安心して会社で働ける。
もともと自分は昇給や出世のために働いているのではない。
仕事は好きだから、そんなインセンティブがなくても努力する。
それよりも、自分が年を取ったときのことを想像してみたら、金がなかったら困るじゃないか。
そう思った。
結果は、多くの若者たちが「上のやつらは働いてないのに給料をもらいすぎだ」という理由で賛成に投票し、成果主義への移行が決まった。
それから20年ほど経って、当時若者たちだったおっさんたちの給料の多くは、あれからほとんど上がらないままだ。

それはとても小さな事例だけど、同じようなことが国全体においても起こるような気はする。
今、ぼくら氷河期世代が、高齢者に対する手厚い保証を叩いても、その結果は今の高齢者ではなく、時間差で自分たちに返ってくるような気がしてならない。
「他のやつらはもらいすぎだ」という論法はとてもわかりやすくて爽快なのだが、その矛先は自分たちにも向かう。
まあ、あまり賢い態度ではないだろう。


日本の政治と選挙の仕組みはあまりにも古すぎる

じゃあ、氷河期世代が政治家に立候補すればいいのでは、あるいは政党を作ればいいのでは、という意見もある。
それはとてもいいことだと思う。
ただ、普通の人が政治家に立候補するのは、かなりハードルが高い。
サラリーマンの場合、会社員を続けながら選挙活動をしたり、当選後の公務にあたるのはなかなか難しい。
今の政治家の多くは、収入を心配しなくてもいい人たちだ。
昔はそれでよかったのだろう。
収入の心配をしなくてよい裕福な地元の名士が、その地域の代表として選出され、公務に集中して取り組んでくれたらそれでよかったのだ。
だけど、今はそんな状況じゃない。
まあ政党に関しては、政党交付金の交付を受けなくてもよいのなら作るのは自由だけど、そこからどうやって育てていくんだ、という話である。
日本の政治と選挙の仕組みは、お金とネットワークを持たない人たちにとって、とても参加しづらいものになっている。
本来は、この仕組み自体を変える必要があるように思う。


できることがあるような気がする

だけど黙っていては何も変わらない。
今の公職選挙法に沿って、合法的に氷河期世代の影響力を高める方法はあるように思う。
氷河期世代は、若い頃からインターネットになじんできた世代だ。
なんでもかんでもお金と人脈が必要な選挙において、インターネットだけは万人に開かれている。
氷河期世代氷河期世代の問題に関心がある人たちがつながってインターネット上で大きな発言力を持つようになれば、それは選挙において十分な武器になるだろう。
その際、たとえば氷河期党のような「氷河期世代」だけを対象とした政党を作るのかどうかは検討が必要だろう。
氷河期世代は1700万人いると言われているから、仮にその1割が投票すれば、政党交付金の対象にだってなれる。
だけどその先、政党としての党勢を伸ばすには、他の世代からも支持される必要があるだろうから、「氷河期」を党名とするべきかどうかは慎重に考えたほうがいいのかもしれない。
いずれにしたって、できないわけじゃないと思う。


みんなそろそろ政治に目覚めてもいいのでは

60歳は政治に目覚める年齢、なんていう人もいるけど、ぼくら氷河期の場合は60歳で目覚めているようでは遅いのかもしれない。
実は今が、政治に目覚め、勉強をはじめ、お互いにつながり、行動を起こしていくタイミングなのかもしれないな、というような気がする。
少なくとも、Twitterで誰かを攻撃したり、自らの境遇を嘆いたりするよりは意味があるんじゃないだろうか。

できることから、はじめたい。

幸せは、変わる。

ずっと仕事が大好きだった。

 

ところが最近はそれほどでもないよな、と思うことが多い。

嫌いになったわけではないのだが、仕事以外にやりたいことや面白いことが多すぎる気がする。

もっと家族と一緒にいる時間が欲しいし、本を読む時間も欲しい。

テレビも映画も面白いし、気持ちよく運動して汗をかく時間も欲しい。

無目的に散歩もしたいし、文章ももっと書きたい。

他にも色々とやりたいことが多すぎて、なんというか、いやまあ仕事も楽しいけどそれだけじゃあねえ、という気になってしまう。

いや、それが普通でしょ、と言われたらまあその通りなんだが、そういう普通の感覚にたどりつくまでにずいぶん時間がかかってしまった。

 

若い頃は激しい欠乏感のようなものがあった。

面白いことがしたい、有名になりたい、ちやほやされたい、活躍したい、そういう気持ちが自分を突き動かしていたように思う。

今もそういうのが,全くなくなったわけではないが、それよりも今という時間を気持ちよくすごせているか、ということが気になる。

 

昔は、自分から動かないと何も手に入らなかった、ということもあるかもしれない。

ぼくは若い頃のほうが自由になるお金はずっとたくさんあったけど、何に使っていいかわからなかった。

お金を使っても手に入らないものばかりだった。

いい仕事、名声、そのためのアイデア、実行する力、一緒にやる仲間、師匠、ライバル。

今はお金もないし時間もないが、それらを使ってやりたいことはいくらでもある。

なかなか人生というのは難しい。

 

幸せは何かというのは人の数だけ違うけど、自分にとっての幸せも、時とともに変わっていくように思う。

だから時々、自分が大事にしたいことは何か、というのを見つめなおしてみるといいのだろう。

そう考えると、いま大事にしていることもまた変わっていくかもしれないし。

 

さて、この道はどこに続いているのやら。