中年の危機から脱出してみて、思うこと。

最近は、いわゆる中年の危機からそれなりに抜け出せてきたかなと思う。

それまでに何があったのか?

ちょっと考えてみた。

 

ぼくがぶつかっていたこと

年を取ると、自分が中年だという厳然たる事実に気づかざるをえない。

頭は薄くなり、顔もすっかり老けて、体のあちこちが痛く、いくら寝ても体力が回復しない。

それはどうにもならない。

それよりも、ぼくが本当に受け入れづらかったのは、世間一般で良しとされている(そしてぼくもそう思ってきた)中年のイメージに自分を合わせていく、ということだったように思う。

ぼくが抱く成熟した大人のイメージは、小さなことには動じず、いつも落ち着いていて、若い人に功を譲り、いざというときには頼りになる、という感じ。

だけど、ぼく自身はいつまでも小さなことにくよくよし、いつもそわそわ、若い人からチャンスを奪い、いざというときにはビビって頼りにならない。

自分のことばかり気になって、そのくせ、周りをキョロキョロ見回してばかりいる。

そういう、なんの成熟も見られない自分を受け入れられず、ずっとモヤモヤしてきたのだと思う。

 

いくつになっても変われないものは変われない

今、ちょっと楽になってきたかな、と思うのは、そういう自分をゆるせるようになったからかもしれない。

不惑を過ぎようが、別に惑うものは惑うし、変わらないものは変わらない。

だいたいぼくはもともとアホな人間なのである。

論理よりも感覚のほうをアテにして、同じ間違いばかりを繰り返し、だいぶしんどくなってきてからようやく、どうもこっちは違うようだと気づく。

そうやって失敗しながらじゃないと進めないような人間なのである。

それは残念ながら個性であって、いくら年を取ろうがアホなものはアホなのだ。

妙に頭良さそうにふるまったり、渋い感じを出そうとしたって無駄なだけだ。

三つ子の魂百まで。

アホな自分という個性を受け入れて生きていくしかないのである。

だけど、そう考えると、アホにはアホの使い道というものがある。

ぼくは頭のいい人たちでは思いつかないような役に立たないアホなことを思いつくのが得意だし、あとさきを考えずにとりあえず行動するのも得意だし、誰にでもわかりやすいように話をするのも得意である(自分がわかることを話せばいいから)。

そういう自分の使い道に気づきはじめてから、かなり気持ちが楽になってきたように思う。

 

頭が良くないといけない世界

ぼくがなかなかそのことに気づけなかった理由のひとつに、世の中の風潮もあったかもしれない。

どうも最近は、誰もかれも頭が良くないといけないような感じだ。

芸能人が大学や大学院に入り直したりするという話を聞くことも増えた。

すでに特別な才能を持っている人たちでも、そうやって学ぼうとするわけだから、何の才能もないぼくは一体どうすればいいのか。

そうやって余計に焦ってしまっていた気がする。

もちろん、大学や大学院で新しいことを学び直し、自分自身の人生を見つめ直す、というのはとても有意義なことだと思う。

しかし一介のサラリーマンが仕事や子育てをしながら、今から大学や大学院に入り直すというのはなかなか大変なことである。

おまけにぼくはアホなのである。

多少の勉強をしたところで、普通の人のような大きな気づきは得られない。

やるなら腰をすえてじっくりと取り組まないといけない。

そう考えると気持ちは焦る、だけど現実的には何もできない、一方で周りではそれをなんとかやりくりして努力している人たちがいる、それを見て余計に焦る、その悪循環で、すっかり身動きが取れなくなっていたのだと思う。

今は、とかくアホな人間がいづらい世の中だ。

アホな人間がアホのままで年を取るための参考となるものが少なすぎる。

だったらどうすればいいのか。

 

頭の良さとは何か

さっき「頭が良くないといけない」と乱暴に書いたけど、じゃあ頭の良さとは何か、ということを考えるとこれはわりとむずかしい問題だ。

実際はそれがはっきりしていないから、有名大学に入学したとか、数学オリンピックがどうとか、TOEICが何点とか、あるいは物事を理路整然と説明できるとか、そういうわかりやすいことに目が向く。

だけど世の中にはいろんな頭の良さがあるように思う。

考えるスピードは決して速くなくても、ひとつのことを深く長く考え続けられる人はどうだろう。

勉強は得意でなくても、その場の状況判断をものすごく的確にできる人もいる。

たくさんの人々の気持ちをつかみ、すぐに人気者になる人もいる。

普段はぼーっとしてるのに、お金がからむと突然脳みそがフル回転しはじめる人もいる。

であれば、まことに恐れながら申し上げますが、その中に「アホ」を含めさせていただくこともできやしませんでしょうか。

いや、そんな前のほうの席じゃなくてけっこうです、ほんとにほんの隅っこの、末席も末席、もうわかるかわからないかぐらいのあたりにそっと混じらせていただく、そんなことはできやしませんでしょうか。

ひょっとしたら何かのお役に立てるかもしれません。

でも一生役に立たないかもしれません。

まあ、ちょっとぐらいいいじゃないですか、ねえ。

最近は、そんな風にぼくは思っている。

 

変わり続けるこの世界で

ぼくらが望もうが望むまいが、この世界は変わり続けているし、そのスピードはどんどん速くなっていっている気がする。

それに合わせて、ぼくらも変わり続けていかないといけない。

自分を変えるというのはとても楽しくてワクワクするものでもあるけど、逆に苦痛になったり、場合によってはぼくのように長い停滞につながることもある。

色々と失敗してみて思うのは、世間一般のイメージや他の人たちが夢中になっていることをあまり真に受けなければよかったな、ということだ。

世界は変わる。

だとしたら、今当たり前だと思っていることも、そのうちまた変わっていくだろう。

だったら、必要以上に自分に負荷をかけてまで変わろうとしたり、あるいは変われなくてあせったりするよりも、また居心地の良い世界がやってくるまでじっくりと待つのも悪くないのじゃないだろうか。

人生、うまくいかない時は、何をやったってうまくいかないもんだ。

そういう時は、自分が大事にしていることをあたためたり、磨いたりしてすごしたほうがいいのかもしれない。

まあ、そういうことも、無駄にあがき、もがいてきたからわかったことなのだが、それはぼくがアホだからしかたない。

そういう自分と付き合い続けることを人生と呼ぶのだから、しかたがない。

行きたい世界は、自分で描くしかない。

職場のロッカーが大幅に減ることになって、荷物を大量に捨てないといけなくなった。

 

捨てるのが惜しい人は自宅に持って帰るなり、どこか別のところに移すなりすればいいのだが、そんな気にもなれず、ほとんどのものを処分した。

一番多かったのは本だった。

そのうちビジネス書は全て捨てて、それ以外の本も人にあげるか捨てるかして、何度も読み返している大切な本だけを残したら、数冊だけになった。

次に多かったのが色んな紙の資料だった。

これはほとんど中見を見ずに捨てた。

唯一、新入社員の頃に熱心に書いた数枚の企画書だけはきれいに封をしなおして残すことにした。

コピーライター時代に作ったものについては迷った。

だけどこれも特別思い入れのあるほんの数作品以外は全部捨てた。

賞状とかトロフィーとかはスマホで撮って、実物は全部捨てた。

他にも色んなものがあったが全部捨てた。

20年ほど働いてきて、残ったものは小さな段ボール箱一つぶんだった。

 

と言うとなんだかさみしい感じもするが、どちらかというとスッキリした気持ちのほうが強かった。

40才を過ぎた頃から生き方を変える、と決めた。

まあそれもうまくいったりいかなかったりだけど、環境はたいして変わらない中でも、気持ちは少しずつ変わっていったのだと思う。

だから、過去の作品や資料を見て懐かしい気持ちにはなったけど、これらの仕事が自分を作ってきたのだ、とまでは思わなかった。

もうこの中に答えはない、と思った。

 

周りに答えがないならば、それは自分で作っていくしかない。

そんなかっこいいことを言ってみても、こわい気持ちでいっぱいだ。

もしこのままアテもなく進んでいって、何も見つからなかったらどうしようとも思うし、とんでもなく間違った選択をしている可能性もある。

また、さっき、過去は振り返らない、というようなずいぶんかっこつけたことを書いたけれども、何も持っていない自分には、過去の経験ぐらいしかすがるものがないのでは、とも思ったりする。

若い人たちなら、裸一貫で勝負する、ということは平気かもしれないが、すっかり年を取って、本来ならこれまで積み重ねてきた努力のリターンを得ていく段階のはずなのに、まっさらな状態でいるのはとても危険で、恥ずかしくて、情けないことかもしれない。

いや、他人から見ればそのとおりだろう。

だけどそれは他人が見ている世界でしかない。

ぼくの世界ではない。

どれだけぼく以外の人たちの評価や常識や理想について考えたとしても、そこには永遠にたどり着くことができないだろう。

それは彼らが目指しているゴールであって、ぼくのゴールではない。

ぼくが行きたい世界は、ぼく自身が描くしかない。
どれだけダサくて、恥ずかしくて、しょぼくて、情けなくても、自分で一歩を踏み出して、自分でつかみとるしかない。

 

かっこわるく生きていこうと思う。

ほんとはもっとかっこよくて、渋くて、落ち着いた大人になりたかったのだけれども、まあ人生そんなに思い通りにはいかない。

そもそも、元々そんな人間でもない。

肩の力を抜いて、深呼吸をして、今の自分を受け入れて、ダサい一歩を踏み出していく。

その先がどうなっているかさっぱりわからない世界を手探りで歩いていく。

たぶん、今のぼくは人生の中で一番かっこわるい。

だけど、ドキドキ、ワクワクしている。

判断が遅い!のは、ダメなことなのか。

これはズルい問いで、もちろんそれは状況によってちがう。

だけど、あまりにも最近は判断の早さを求められることが多いような気がする。

で、本当にそれでいいのかなあと思った。

 

判断にも色んな種類がある

たしかに判断は早いほうが良いことが多い、というのは人生の中で何度も経験がある。

いい企画というのはすぐにピンと来ることが多く、うーんこれはどうかなあ...と悩む場合はあまり追いこんでもなんともならないことが多い。

また、期間限定のプロジェクトや明確なゴールのある作業の場合は、モヤモヤ悩んでいるヒマがあったら、小さな判断をどんどんやっていって、ちょっとずつでも先に進んだほうがうまくいくことが多い。

一方で、割と長く悩み、ギリギリまで判断できなかったこともたくさんある。

なにがなんでもコピーライターになる、という判断も、実際はそう思えるようになるまで色々と悩んでいたし、その気持ちを試されるような機会がなければ、ひょっとしたら今でも悩んでいたかもしれない。

あるいは今のような仕事と生活のしかたを選ぶようになったのも、納得いくまでかなり時間がかかった。

いや、正直に言えば、ぼくは人生におけるたくさんの判断をまだまだ保留にしている。

それらの中には本来なら今すぐ決めるべきこともあるだろうし、逆にじっくり考え、樹を待ってから判断するべきこともあるだろう。

判断にも色々ある。

 

早い判断ばかり求められる世界は余裕がない

たしかにポンポンと早い判断を繰り返し、次々に新しい展開を迎えていくのは楽しい。

それがいい方向に進むと、いい感じに脳内に刺激が走り、テンションが上がり、なんでもできそうに思えたりする。

しかしそれがずっとうまくいくわけではい。

何かの拍子に間違った判断を繰り返してしまったり、思いもよらないできごとに巻き込まれてしまったりして、しばらく再起できなくなることもある。

判断が遅い!が合言葉となるような環境では、そういう人は置いていかれたり、再起の可能性を摘まれたりする場合がある。

本当はそういう時こそ、自分のいる場所を見つめ直し、じっくりとこれから先を考える時間が必要なのだと思うけど、そんな余裕はなかなかないのが実情だ。

世界はますます早い判断と、正しい答えと、新しい情報を求めてゆく。

ぼくもそういう感じだ。

 

宙ぶらりんに耐えれるか

だけど、このところ、ぼくは色んなところで簡単に判断するのが難しい場面にばかり出くわす気がする。

感染症についても、ロシアの軍事侵攻についても、仕事のこれからについても、家族の未来についても。

大きな方針なり仮説なり妄想なりはできても、いざ今自分は何をするのか、ということになると皆目見当がつかない。

いくらそれらについて考えても、考えるだけモヤモヤが増え、余計に不安になってしまう。

じゃあまったく考えなければいいのかというと、それはそれで難しい。

そういう、すぐには答えの出ない宙ぶらりんな状況に耐えること。

それがいまぼくがぶつかっている、あるいはもう何年も何年も抱え続けている何かの正体のような気がする。

 

じゃあどうすればいいか

そこでまた急いで解決方法を探してしまいそうだが、それこそがモヤモヤの原因かもしれない。

結局、いまぼくができるのは、そういったモヤモヤを受け入れることなのだろう。

自分は解決方法を持っていない。

この先も手に入るかどうかわからない。

そんな状況を受け入れて、それが自分の人生、と開き直っちゃうことなんだろう。

それはすごく難しいことだし、そう思えるときと思えないときがある。

世の中はぼくらにさらなる早い判断を求め、歯切れの悪い言葉を否定しにかかる。

そんな中で、判断が遅い!のも大事、とはっきり思えるタイミングがどれだけあるだろう。

 

だけど、やっぱり宙ぶらりんでありたい。

ぼく自身の人生の答えを、他人から勝手に迫られ、押しつけられてたまるか、と思うし、ぼくもまた他人に対してそうあってはいけないと思う。

モヤモヤを受け入れながら歩いていきたい。