何かを失うには、練習が必要だ。

 

 

 

 

あいかわらず雨が降り続けている。

 

 

 

ポール・オースターの『サンセット・パーク』(新潮社,柴田元幸・訳)と、ドン・デリーロの『堕ちてゆく男』(新潮社,上岡伸雄・訳)を読んだ。

『サンセット・パーク』はリーマンショック下のアメリカ、ブルックリンを舞台にした小説で、『堕ちてゆく男』は世界貿易センターでの事件を背景とした小説。

 

ぼくはあまり小説について説明をするのが得意ではなくて、なぜなら小説の中で使われている言葉以外の言葉を使ってそれを解説してみせる、ということにすごく骨が折れるからだ。

とにかく、どちらもおもしろくて、夢中になって読んだ。

そして、失うことについて考えた。

 

大不況によって安定した生活がゆらぐ。

事件によって当たり前だと思っていた価値観が崩れていく。

そうやってぼくらは今まで手にしていたものを簡単に失う。

外から強引に奪われるだけならまだあきらめがつくが、年を取れば、自分の内側から少しずつ色んなものが失われていく。

若さ、体力、集中力、記憶力、辛抱強さ、そして自信。

 

誰もが大切なものを失わないために毎日努力をしている。

ぼくらの人生の時間のほとんどがそのために使われていると言ってもいいかもしれない。

だけど、そうやって大切に守り続けたものも、いつかは失われる。

 

だから、失う練習が必要だと思う。

それを悲しむこと、嘆くこと、時間をかけること、待つこと、受け入れること、そしてできることをゆっくりとはじめること。

ぼくが小説を読むのは、そういう練習を誰にも迷惑をかけずにできるからかもしれない。

 

雨が降り続けていると、晴れた空が恋しくなる。

だけど、ぼくが本当に求めているのは、二度と晴れる日がやってこない世界をどう歩いていくのか、その訓練をはじめることなのかもしれない。

ぼくの人生は、誰かの手段として存在する。

 

 

 

ひどい一週間だった。

 

 

 

ずっと全身がだるくて、大量の海水の重みに押さえつけられて身動きのとれない深海魚みたいだった。

仕事はなかなか進まないし、チームメンバーたちもなんだかだるそうにしているし、良くない連絡ばかりが来るし、妻は足の指をケガして辛そうにしているし、もっと自分が動けたら色々なことがマシになるのにすっかり疲れてしまって夜が来ると寝てしまう。

 

三月からずっと気持ちが張り詰めっぱなしだったから、なんていうことも思うけれど、たぶん一番の原因は天気だろう。

ぼくは雨は嫌いじゃない。

雨は急に降ってきて、これまで当たり前のように進んできた色んなものの流れを止める。

人々は何かをあきらめて温かいコーヒーをいれはじめ、読みかけの本を開き直し、そのうち誰かが音楽をかけ、ざわざわと話し声が聞こえてくる。

もともとグータラな性格なので、そうやって予期せぬ小休止が生まれる感じがけっこう好きなのだ。

だけど、ここまで雨が降り続けると、ちょっとうんざりしてくる。

いい加減なもんだ。

 

それでもまあ近いうちに梅雨は明けて、夏がやってくる。

今年の夏はきっと短い夏になるだろう。

子どもの夏休みはいつもよりもずっと少ないし、やらなきゃいけないことはいくらでもあるし、歳を取ってからは行動量がすっかり減ってしまった。

若い頃の、あの退屈を持て余して本ばかり読んでいた夏にはもう出会えない。

結局、ぼくはもう自分のためだけに使う時間というものをほとんど使い切ったのだろう。

あとの人生は、自分以外の人が何かを実現する、そのための手段を提供するぶんぐらいしか残っていないように感じる。

誰かの手段としての、自分の人生。

若い頃の自分が聞いたらとても耐えられない話だ。

だけど今はそこまで嫌な気持ちにもならない。

誰かの手段になること自体は、自分で選んでいるわけだし。

 

雨はたしかに気持ちを沈ませる。

だけどまあ、薄暗い世界に身を置いてみないと見えてこないものもあるかもしれない。

もうしばらく海の底の生活を楽しんでみるか。

報酬のない人生を、生きる。




久しぶりに下の子と、大きめの公園に出かけた。



池には蓮の花が咲きはじめていて、二人できれいやなと見とれていた。
あまりにあざやかなピンク色をしているうえに、中央に黄色い、小人が置き忘れたバケツみたいなのが乗っている。
広い葉の上には昨日の雨の名残りなのだろう、大きな水玉がコロリと横になり宝石のように輝いている。
この花だけが、まったく別の次元にある世界から突然現れたみたいだ。
そりゃまあ昔の人は、ありがたがったはずだと思った。
子どもはすぐに飽きて、今度は水の下に魚がいる、いっぱいいる、と騒いでいる。
彼も別の世界からやってきてそこまで時間が経っていないから、異次元の花はたいして珍しくもないのかもしれない。

それから少し移動して、橋の上から、向こう岸の生い茂る木々を眺めた。
風が気持ちよく吹いてくる。
さざ波の立つ池の真ん中でじっとしていると、あの懐かしい、船に乗って流されているような錯覚がやってきた。
それに身を任せてみたら、体がパラパラとほどけてあたりの空気と一緒になっていくようだった。
自分では気づかないうちに、ずいぶん疲れがたまってたんだなと思った。

コロナがやってくる少し前から、自分なりにやりたいこと、やるべきことに取り組んでいて、まあ色んな障壁があって簡単にはいかないけれども、ちょっとずつは進んでいる。
数年前の、進むべき道を見失って苦しんでいた時期と比べたら、ずいぶんマシになった。
外出ができなくても、仕事をする時間が大幅に減っても、何かにしがみついてでも、できることをやっていこうという気持ちになれた。
だから、当たり前だけど、無理はしている。
無理をすると、疲れるし、イライラもするし、そうやってがんばったのに誰もほめてくれなかったり、評価されなかったりすると、むなしい気持ちになる。
何も報酬を与えられることなく、なんでこんな自分だけが苦しまないといけないのか、と思ってしまう。
まあもちろん、働いたぶんのお金は払ってもらわないと困るのだが、それ以上に、誰かにねぎらってもらいたい、よくやったよねと言われたい、という気持ち。

だけど、そういうものは、もう本当に要らない。

自分ががんばったかどうかは、自分が一番よくわかる。
やったことのないことに思い切って挑戦してみた。
失敗を繰り返しながら、それでもあきらめなかった。
もう休みたいなと何度も思ったけど、やっぱりあきらめなかった。

まあもちろん色んな小手先の技術や、頭の回転の良しあしも大事だろうけど、結局は、やってみたかどうかと、あきらめなかったかどうか。
人生なんて、それだけのような気がする。
そして、それは他人から評価されることじゃなく、自分で考えて、自分で行動して、自分で納得することでしかない。

ぼくの悪いところで、ちょっと余裕ができるとすぐに手を緩めて、周りの反応を気にしたり、物事を斜めから見てかっこつけようとしたりする。
必死にやっている人をバカにしたりしようとする。
あるいは息が続かなくなって苦しくなってくると、こんなアホらしいことはやってられないとか、誰にも評価されないのに努力する意味などないとか言い出したりする。
だけどもうそういうのは、本当におしまいだ。

かっこわるくていいし、ダサくていいし、下品でも、空気が読めなくても、文化的でなくても、知的でなくても、やさしくなくても、男らしくなくても、身もふたもなくても、なんでもいい。
目の前の、自分がやると決めたことを、あきらめずにやり続けることができていたら、それでいい。

もう報酬を求める人生は、おしまいだ。
そういうものは、若い頃にじゅうぶんに楽しんだのだから。


池の周りをぐるっと歩いていたら、釣り人が、ちょうど大きな魚を釣りあげていた。
子どもは、網の中ではねる魚を見せてもらって、少し興奮していた。
それから釣り人はすぐに網を池の中に入れて、釣った魚を逃がして、また何事もなかったかのように釣り糸を垂らしはじめる。

ぼくはな、ほんまはな、将来はりょうしになるって決めてるねん。
りょうしってゆっても鉄砲で動物うつやつちゃうで。
魚を捕まえるりょうしやで。
下の子はまだちょっと興奮しながらしゃべっていて、汗ばんだ小さな手が、ぼくの手を握ってくる。

せやなあ、まあ色々やったらええんちゃうか。

ぼくはいい加減な返事をしながら一緒に歩く。
雲と雲と切れ目から、急に太陽の光が差してきてまぶしい。

もう報酬は、じゅうぶんに与えられている。