トートバッグに、なりたい。

 

 

 

 

仕事では、大きめのトートバッグを使っている。

 

 

 

若い頃はカッコつけてイタリア製の革のブリーフケースを持ってたし、子どもが赤ちゃんの頃は、パソコンも哺乳瓶も入るファザーズバッグ(斜めがけで両手が空く)なるものを愛用していた時期もある。

 

このファザーズバッグは保育園に送ったあとそのまま出勤もしやすく、なかなか良かったのだが、肩から斜めがけにするとジャケットが崩れてしまうのが気になっていた。

 

ちなみに家族で出かけるときは、長く歩き続けたり急に走ったりするのでリュックを使っている。

しかしリュックは背中に密着する面積が大きくて夏場は暑いし、冬はコートやダウンジャケットの上から背負いづらいので、ほとんど仕事では使わない。

 

それで今のところのぼくの結論は、トートバッグである。

条件は4つで

 

・持ち手が長く厚手の上着を着ていても肩にかけられる

 

・普通よりもちょっと大きく一泊出張ぐらいは耐えられる。

 

・床や椅子の上に置いても自立する。

 

・価格が安くて気軽に毎日使える

 

といった感じ。

 

肩からかけられたら両手が空くし、必要なときにサッと荷物を取り出せる。

 

ちょっと大きいと、パソコンを入れてもまだ色んなものが入る。

ぼくは必ず本を入れておきたいし、折りたたみ傘も中に転がしておけばいいし、夏はジャケットをくるっと丸めて入れておけるし、冬はマフラーがいらないときにしまう場所にもなる。

保育園のカバンに入りきらない、本人は苦心して作ったつもりの変な製作物とかも、まあよっぽどの大作でなければなんとか入る。

 

あとはちゃんと床や椅子の上で手を離したときに、ポンと自立すれば、中身がぐちゃっとなったり、そこから何かがコロコロと転がり出てあせったりしなくて済む。

 

それで価格が安ければ、気兼ねなく毎日使える。

実はそこが一番大事な気がしている。

カバンというとなんとなく服とかアクセサリーとか、場合によるとそれ以上に気を使わなければいけないイメージもある。

しかし、だから大事に扱わなくちゃとか、毎回違うものを持たなくちゃとか、変に気を使いすぎた結果、あんまり使わなくなっちゃったり、パンパンに入れるのはカッコ悪いからとサブバッグも一緒に持ったりして、カバンとしての使命を果たせてないことも多いんじゃないだろうか。

カバンをしっかりカバンとして使い込んで、その役割を全うさせてあげたいものである。

 

あと、トートバッグは中ががらんとしすぎて荷物を仕分けられないと気にする方もいるが、それならバッグの中に仕分け用のミニバッグやちょっとしっかりめのエコバッグを入れておくとよい。

ぼくは、小物は無印良品のサチェットに入れてバッグの中に忍ばせているが、なかなか便利だ。

 

それでまあ思うに、ぼくはこのトートバッグみたいになりたい。

いちいち手間をかけなくても大丈夫で、許容量が大きくて、自立していて、いつも気軽に相談できる、そういう人間になりたい。

 

しかしまあ実際は、いちいち理解させるのに手間がかかり、すぐにいっぱいっぱいになり、人に頼りがちで、あんまり話を聞かない、そんな状態なので、トートバッグってすげえなあ、と思うのである。

サードブロガーを、続けてみて。

 

 

 

なんだかんだいって7年近くブログを書いているようだ。

 

 

 

当時は影響力の大きな書き手はアルファブロガーと呼ばれてもてはやされ、アルファブロガー同士で盛り上がり、そういう存在になろうとせっせとエントリを書く人と、それを周りで見て嫉妬する人とがいた。

ちょうど職場で表現者同士の小さな仕事の奪い合いに疲れていたぼくは、ああブログの世界でも同じなのかとげんなりして、もうそういうのはええやん、アルファブロガーでもそれを追いかけるベータブロガーでもなく、自由に書きたいことを書くサードブロガーになろうよ、と言っていた。

 

それで、7年近くを振り返るに、ぼくはちゃんとサードブロガーでい続けているなあと思っていて、まあ家庭と仕事にほとんどの時間を使っていてすっかり書く機会は減ったけれども、たまにフラッとやってきて、書きたいことを書いて、また慌ただしい日々に戻ってゆく。

うれしいことに、たまに他のネットメディアでも書いてみませんかというお誘いもいただけて、そこで小さな芸を披露させてもらってホクホクとしている。

ブログはぼくにとっては相変わらずサードプレイスなのだ。

 

続けるというのはとても難しい、と心から思う。

生物学的にも人が何かに夢中になり続けられるのは3年が限界だそうだ。

自分の人生を振り返るに、たしかにだいたい3〜5年ごとに関心事が変わっていってて、それなりに長くやっていた広告クリエイターの仕事も、関心テーマはそれぐらいの周期で変わっていった。

レバレッジをかけるとか、一点突破とかよく言うが、これを短期的な意味でとらえるとしんどくなると思う。

一点突破した人の話を聞いてると、周りからそう見られるようになるまでもずっと同じことに関心を持ち、それをああでもないこうでもないとゴチャゴチャしながらも、ずっと同じテーマについて挑戦し続けていて、それがだいぶ後になってから発見されて、一点突破だ!と呼ばれているだけの場合がほとんどである。

 

もはやこうなると好きとか情熱とかいう美しいものより、偏執とか中毒のほうが近い気がする。

定期的に関心事が変わるぼくはそこまで危ない因子を持ってない、まともな人間だという証拠である。

それでも断続的ながら7年近くブログを書いてるということは、関心が保たれる期間を少なくとも一周は過ぎている。

場合によると二周目も終わりかけているかもしれない。

中毒とは思わないが(そればっかりは自分ではわからないが)なんらかの力がそこには働いていて、それは承認欲求とかもあるんだろうけど、それよりももっと次元の低い、生理的な現象に近い気がする。

 

いずれにしたって、こんなに手軽に、こんなに長く、こんなにマイペースに続けられる何かがある自分はとても幸せだと思う。

 

サードブロガーでよかった。

誰も道は、教えてくれないけれど。



家族で母校を訪れた。



上の子が興味があるらしく、文化祭をやっていたので見に行った。
ちょっと前に同級生の用事の手伝いで校舎に行ったことがあるので、特に懐かしいとか感慨深いという感覚はなかった。
ただ在校生たちが、うちの子に話しかけてくれたり、遊びを盛り上げてくれたりしている様子を見て、ちょっと不思議な感じがした。

子どもたちが展示に夢中になっているあいだ、ちょっと疲れたので窓際に寄りかかって、外の景色を見ていた。
二十年以上経ったいまでもその光景はほとんど変わってなくて、高いところから広い空、緑の山、そして海へとつながる街並みを一度に見下ろせるのは、窓際の席になったときの特権なのである。
いまだにこの気持ちのいい環境の中にいるあいだにもっとしっかり勉強をしておけばよかったなと思うことはあって、そこでぼくのようにぼんやりとせずに必死に努力していた同級生たちはこの国だけでなく、世界じゅうで活躍をしている。
ぼくはすっかり落ちこぼれたが、十何年ぶりにみんなで集まったとき、コピーライターなんてわけのわからん仕事をしているやつは他にいなかったので、珍しがられてちょっとうれしかった。
ぼくはぼくなりの居場所を見つけ、家族ができ、みんなで母校に遊びに来ている。

不安なこと、心配なことがたくさんある。
ありすぎて、いつもその不安たちをつぶす作業に明け暮れ、こんなことばかりしている場合じゃない、もっと創造的なことをやらなくてはと焦り、理想と現実の落差にショックを受け、気が遠くなる。

今の自分は幸せなのかと言えば、たぶん幸せなのだと思う。
だけどそれは次の瞬間には失われる可能性のある幸せで、あるいはもっと努力しないともっと幸せにはなれず、あるいはいくら努力してもこれ以上幸せになるのは自分の実力では困難かもしれない。
そもそも、このままではいけない、といつも焦り続けている状態というのは、そんなに幸せとは言えないような気がする。

上の子と一緒に生物部の展示を見に行ったら、飼育カゴの中に赤や青や緑に輝くとても美しいハンミョウがいて、そのへんで見つけてきた、と説明が記されていた。
子どもが部員のお兄ちゃんに聞いたところ、普通に敷地内で見つかるという。
在校時にはそんなこと知らなかったし、知っていたとしても興味を持たなかっただろう。

幸せになるには、技術が必要な気がする。
それはあんまり簡単なものではない。
少しでも生活がマシになるように途切れず努力し続けられる忍耐力とか持続力とか、あるいはそれを持ち続けられる心のありようを時間をかけて身につけなければいけない。
だけどそれに加えて、毎日当たり前のように通っている校舎の敷地で、小さな美しい虫を見つけられる視点も必要なのだと思う。

もし何らかの理由で生きる力が弱くなってしまっても、不思議なものを見つめる態度を失わずにいたい。

帰り道にひょっとしてハンミョウが見つかったりしないかと足元を見ながら歩いたが一匹も見つからなかった。
それどころか雨が降ってくるし、下の子は坂道ですべってケガをするし、散々だったが、子どもたちは楽しかったらしい。

帰宅したら風がひどく吹き荒れていたようで自転車が倒れていた。
自転車を起こし、溝に詰まった落ち葉やら腐った木の実やらをかき出した。
それから家じゅうの燃えるごみを集めて、先にさっさと風呂に入って汗を流し、早めの夕食をすませたら、やたらと眠くてみんなで早く眠ってしまった。