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犬だって言いたいことがあるのだ。

ものごとをひとつ先に進めるヒントについて考えています

ハッピーエンドは、望んでいない。



自分の人生を振り返ってみると、これはいかにもハッピーエンドだな、みたいな場面が、決してたいしたことではないのだけれど、いくつかすぐに思い起こされる。



しかし残念ながらというか幸運なことにというか、ぼくの人生はまだ続いていて、それで、自分がいまハッピーかどうかというのを、それらのハッピーエンドとなんとなく比べているような気もする。

だけどそれは悪くない話だと思っていて、なぜなら仮にそのハッピーエンドな瞬間よりもいまがハッピーじゃないとしても、自分には一度ないし二度三度とハッピーエンドを迎えられた経験があるわけで、もうあとはどれだけ記録更新に取り組もうか、みたいな、自分との戦いないし折り合いをつける作業のような気でいられる。

辛いのは、他人のハッピーエンドを自分のハッピーエンドと勘違いしてしまうことである。

有名クリエイターとして大活躍することや、会社の役員になって経営手腕を発揮することや、高級住宅街に居を構えて外車を乗り回すことは、ぼくのハッピーエンドではないのだが、しかしそれをいつのまにか自分のものだと思い込んでいたりする。

ややこしいことに、人生の台本には名前が書かれていないので、気づかないうちに他人のそれと差し代わっていても、そのままだったりするのだ。

別にそれでも構わない人は構わないのだろう、そういう人は、他人の台本だろうが自分の台本だろうが難なくやりきることのできる能力を備えた人か、あるいはもともと自分の台本なんて書くつもりもない人だろう。

しかし少なくともぼくは自分だけのハッピーエンドを迎えたいし、誰かが勝手に決めたハッピーの定義に簡単に乗っかるには、ちょっと年を取ってややこしくなりすぎている。

もっといえば、もはやぼくはハッピーエンドを望んでもいない。

欲望なんてものは満たされないものだし、万が一それが満たされたとしてもまた新たな欲望が生まれるだけだ。

もちろんあまりにも理不尽な目にあって人生を終えるのはイヤだけど、しかしまあそうだとしても、いやあ我ながら最後までなかなかしつこく抵抗できたなと思いながら消えていくのも悪くはない気がする。

若い頃は早く欲望を満たしたくて、早く幸せになりたくて、焦っていた。

いまは、自分の欲望とじっくりと付き合っていきたい。

そして、今までよりももっとややこしくて、凶悪で、手強いやつに育ったところで、苦労して、やっとの思いでしとめたいのだ。

そんなわけで、ぼくは一般的な幸せについての話をするのはあまり得意ではない。

もし、相手がとんでもなく凶暴な欲望を飼っていたとしたら、嫉妬のあまり、どうなるかわからないからである。