子供をスイミングスクールに迎えに行くと、さっきまで子供たちを教えてくれていた若いコーチたちが、ジャージ姿で挨拶をしてくれることがある。
髪はちゃんと乾かす間もなく濡れたまま、ついさっきまでプールでの指導で声を張り上げていた時の熱気を少し残しながら、お迎えおつかれさまです、と笑顔で声をかけてくれる。
僕はその場面に出くわすと、男女問わず、そのコーチの姿を素敵だなあ、かっこいいなあと思う。
そこには多くの言葉は必要なくて、この人は子供たちに水泳を教えるために文字通り身体を張ってきたばかりなんだと、その濡れた髪やまだ少し荒い息づかいが十分に物語っている。
ああここには人間がちゃんと存在していて、誰かのためにその身体を使って働いているんだなあ、すごいことだなあ、と感じる。
僕は最近、そういうのにすごく弱いのである。
そして、これはもう本当に余計なお世話なんだけど、この人たちみんなが幸せになってほしいなあと願ってしまうのである。
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しかしどんな仕事でも、それをやりきった直後の姿がかっちょいいとは限らない。
僕のようなおっさんがパソコンに向かって書き続けていた書類がついに完成して、どれちょっと出力して最終確認しようかとどっこらせと立ち上がった姿のどこがかっちょいいと言えるのか。
あるいは取引相手と遅くまでお酒を飲んでベロベロになりながら必死に最終電車に駆け込む背中のどこがかっちょいいのだろうか。
まあそれは別に僕に限らず、まあまあ多くの仕事というものは、そういう感じじゃないかなと思う。
その人が自分の身体を使って行う労働そのものを目の当たりにすることはなかなかないし、たとえば毎日の電車で出会う色んな人々が、ついさっきまでどんな働きをしてきたのかは、さっぱり見えない。
見えるのは、その労働自体ではなく、なんからのアウトプットだけだし、そのアウトプットですら限られた関係者にしか認識できない場合も多い。
そしてその多くは計測可能だと信じられているなんらかの数字や、それにまつわる金銭的価値としてしか認識されていない。
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僕は別にここでプロレタリアート論をぶちあげたいわけではない。
ただ、人が誰かのためにその身体を使って懸命に労働している場面に出くわすたびに思う。
労働とは、本当にかけがえのない行動なのだ。
そのアウトプットが他の何かと代替可能であろうと、あるいは金銭的価値の低いものであろうと、それはその人のかけがえのない身体と時間を使って行った、たった1つの仕事なのだ。
僕らは色んな出来事を数字に換算することで世の中を効率化し、無駄を省いてきたし、そのおかげで産業は発展し、自由にできる時間を手に入れられた。
僕がこうやってブログを書いていられるのも、その恩恵に預かっているからだ。
そんな世界を保つために、僕らは自らの身体を挺して労働を続けている。
もちろんそれは自分の生活を守るためではある。
それにしてもだ。
自分以外の人間が、どこかで自分のために労働している、というすごくシンプルな事実を、ただ素直に受け止めて、掛け値のない感謝の念をいつも持っていたいと思う。
もし僕の最期が、色んな人から見放されて、孤独の中で死んでいくものだとしても、それまで自分を生かしてくれていた人々に向かっての言葉として、ありがとうとつぶやきながら死んでいきたいと思う。
そしてそれは、これまでなんとか自分の生命機能を維持するために労働を続けてきた自分の身体に対する感謝の言葉なんだとも、おもう。