副業を持つのか、本業でがんばるのか。




ぼくの周りには、何人か「副業」を持っている人がいる。



そういう人たちは、本業も決して手を抜いているわけではない。

手を抜いているわけではないが、しかし全力を尽くしているわけでもない。

ある人に、副業でうまくいくコツは何かと聞いたら、本業を面白いと思わないことだと教えてくれた。

これは割と真実だと思う。


本業も、副業も、どちらも最高!というような状況はなかなか作りにくいのだろう。

なぜなら人間は一度にいくつものできごとに執着しにくい生き物のように思えるからだ。

執着というのは、ちょっとした興味とか好奇心とか、そういうものとは全く別のもの、あるいは真逆のものだ。

マラソンに興味があるんだよねとか、陶芸に関心があってさとか、そういう前向きなエネルギーではなく、そのつもりはなくてもついそのことについて考えてしまう、気がつくとそればっかりやってしまっている、そういう状態を指す。

ぼくが見ている限りでは、副業がうまくいっている人も、本業がうまくいっている人も、どっちもその仕事に異常に執着していて、そのことばかりを考えているのである。


副業も本業も、いずれも「業」である。

「ごう」と読めば、不合理であることがわかっているのについやってしまう行為となる。

いくら合理的であることにこだわっていても、効率を追求していても、そのこと自体にとらわれている限りは、それは「ごう」なのである。

それでも、ぼくらが自分のやっていることに夢中になりたければ、「ぎょう」ではなく「ごう」を選ぶべきなのだろう。


さて、ぼく自身はどうなのかなと思うと、創造性、というずっと執着しているテーマがあるのだけれど、それは本業とか副業とかの区別があまりなくて、極端に言えば何をしてようと、どこにいようと関係ない。

関係ないからいつもモヤモヤしてるんだろなあと思ったし、しかしそれが自分の「ごう」なのだと思うと、意外と気持ちが軽くなる。


ぼくらはどうせ、何かから逃れられない運命にあるのだとしたら、それを自分の原動力だと受け入れて、精一杯楽しむほうがかしこいように思った。



以上は、この記事を読んで思ったこと。

ライターのヨッピーさんに「会社員やりながら“生産する趣味”を持つのが最強」という話を聞いてきた

やらないことを、増やしていく。





ここのところ、すごい人たちに出会う回数があまりに多く、自分のできることなんて本当にかぎられているなあと思うことばかりだった。



ただ、ぼくが感じた「すごい人たち」というのはみんな共通していることがあって、彼らはいつも何か具体的なことを目的として持っていて、それを果たすために全力を尽くしている。

ぼんやりと人の役に立ちたいとか面白いことがしたいとか世界平和に貢献したいとか、まあそういうことも最終的には考えているのだろうけれども、当面やると決めていることがあって、それはこのイベントを成功させるんだとかこの作品を完成させるんだとかこの交渉を成立させるんだとか、とても具体的で、かついい感じに困難で、しかしいい感じに達成できそうな、いい頃合いの標的を持っているのである。

で、それを達成するために何をやればいいかを一日中考えていて、夜中に急に大事なことを思いついて動き始めたり、もう納品は終わっているのにやっぱり修正したいとか言い出したり、周りがもう絶賛しているのにまだまだ途中段階だとか思っている。

さて、この人たちは本当に「すごい人たち」だのだろうか。

たぶん、ちがう。

彼らは自分のやっていることに対する執着心が異常に強いだけなのだ。

もっといえば、自分がぎりぎり達成できそうな、いい感じに執着できるものを見つけることに長けているのだ。

簡単すぎればつまらないし、難しすぎればどこから手をつけていいかわからない、ちょうどいい感じの頃合いを知っているように見える。

あるいは、あまりに簡単なものしか手元にない場合は、その高さをちょっとずらして、手ごたえのあるテーマに変えてしまったりする。

そうやって、彼らはいつも何かの目的を果たすことにこだわり、これはどうだ、これならどうだ、これがだめならこっちでどうだ、とずっと躍起になって取り組み続けているのである。



さて自分はどうかといえば、多少は執着していることもあるけれど、こっちの話もいいな、あっちの話も面白いな、などと気が多くて、まあ気晴らしはうまくできているのかもしれないけれど、そのせいで自分が心から納得できるような成果を挙げられていないように思う。

ぼくはもうこの年なので「すごい人たち」の一員になりたいとも思わないけれども、しかし年を取っているぶん、もっと自分の欲望の声を素直に聞いて、そいつがちゃんと成就されるようにしてやらなきゃな、と思う。

で、そのためには、やらないことを増やしていくことが大事なんじゃないかな、と思っている。

生きていると、どんどん、あれもやっておいたほうがいいんじゃないか、これもやらなきゃいけないんじゃないかと気になることばかりが増えてくるけれど、本当に自分がやりたい(それはやりたい、でもやらなければいけない、でもこの際どっちでもいい)ことだけに照準を当てて、他のことを思い切ってあきらめる。

そうしたほうが、色々なことがスッキリするんじゃないかなあという気がしている。



スッキリという表現があっているのかどうか、よくわからないけれども。

どうでもいい、こと。





色々とチャンスはあったはずなのにいまひとつ良い評価が得られなかったなと思うTVCMの仕事があって、その原因はぼく1人で勝手にやりたい企画を考えて、それをみんなに無理やり押しつけて、だけどどうもみんなイマイチその面白さがよくわからなくて、つまりそれは結局あんまり面白くなかったということなのだけど、それでも納期が迫っているからとか出演者も決まっちゃっているからとかそういう理由で強引に進めてしまって、いまだにあれは辛かったなあと振り返ることがある。



そのときに一番印象に残っているのが、やっぱりイマイチ盛り上がらない撮影現場で、なかなか満足いくシーンが撮れなくて何度も粘って、ちょっとはマシになってきて、だいぶいい感じなのでちょっとだけセットを動かしてもう一発行ってみましょうということになって現場をちょっと離れようとしたときに、録音部の人が、ああこの子のこういう感じはいいよね、こういうのは新しいんだろな、なるほどね、とつぶやいているのが聞こえたときだ。

ぼくはそれを聞いてとてもがっかりしたのである。

誰も期待していなかったのだ。

オンエアしてから(あるいはする前から)話題になるCMというのは、こいつは面白くなりそうだぞというワクワクした感じが企画の打ち合わせをしている時からあって、企画が決まってさあどうやって作ろうかという相談をしている時もみんな明らかに興奮しているし、どんどんアイデアが出てくるし、そりゃあちょっと違うんじゃないかというネガティブな話をしていてもみんな目は死んでなくて、むしろらんらんと輝いている。

さてどうやって料理してやろうかとみんなが手ぐすね引いている感じがビシビシと、はっきりと、伝わってくる。

だから今回の仕事には誰もそれほどワクワクしていないのをぼくが一番感じ取っていたと思うし、だけどひょっとしたらオレのスーパーアイデアが最後の最後に撮影現場で爆発するんじゃないかとかわけのわからない希望だけを抱いて撮影に臨んだわけだが、やっぱりダメだったのだ。

チームのみんなが面白いなと思って取り組んでいない仕事は、やっぱり面白いものにはならないのだ。


ぼくは他にも特に話題にもならない仕事も、特に面白くもなんともない仕事もしてきたのだけれども、いまだにこの仕事での経験が心のどこかに引っかかっている。

結局、ぼくが後悔しているのは、あの時、チームメンバーと一緒にいい時間をすごすことができなかったことだ。

もっとワクワクできる時間を共にすることができたはずの仕事で、ぼくが強引に物事を進めてしまったせいで、誰もワクワクできず、期待もせず、よしこれでちょっと世間をあっと言わせてやろうというあの悪だくみを共有する感じをまったく生み出すことができなかったことだ。


面白い仕事をするのが大事だという話をしたいのではない。

なんなら仕事の話をしたいわけでもない。

ぼくは、ここまでこの話を書き進めるまでは、だから残りの人生の中でともに時間を過ごす人とは、できるだけ良い時間をすごせるように努力したいと言いたかったのだが、なんとなくそういうことでもないような気がする。


あえて言うなら、ぼくが残りの人生をどれだけダイナミックで、波乱万丈で、あるいはとても幸福で深く満足いくように生きることができたとしても、心に強く刻まれている記憶というのは、自分が思っているよりも何段階もかっこわるくて、恥ずかしくて、ちっぽけで、苦くて、後悔してもまったく手遅れなことばかりなのかもしれない、ということである。

そして、だからといってそのこと自体をひどいものだとは思わないし、ぼくにとっては、年を取るということはそういうものなのだろうなということである。