仕事をしていると、色んな技術や知識や知恵が身についていく。
だから僕はつい、多くのものを自分の力で獲得してきたと勘違いしてしまう。
しかし、そういったもののほとんどは先人たちの行動の蓄積でしかないし、
どれだけオリジナリティがあると思っていても、ほんのわずかなアレンジを行っただけにすぎない。
それだけではない。
たとえば自分にとって大切なもの、恋人とか、家族とか、そういったものでさえ
自分で手に入れてきたものではなく、
相手が自分を受け入れてくれているからこそ成立しているだけであり、
とうてい「成果物」なんて言えるわけがない。
さてそうなると、お金ということになるが、
それも誰かがどこかで得てきたものが偶然にもこちらにやってきただけである。
貨幣というのは人から人へと渡っていくこと自体がシステムの根幹機能なので
どこか1つにとどまっているのでは、何の役割も果たすことができない。
最後に、僕自身の命であるが、これですら、僕が自分で獲得したものではない。
さまざまな偶然が重なった中で、偶然にも受け継いできたものでしかない。
そして、食事としていただいている、多くの生命たちに生かされているだけである。
そんなわけで、僕は自分の人生の中で、まあ何も得てはいないと言えるだろう。
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こんな風に考えることで、僕はすごく楽になれる。
失うことについて、必要以上に考えなくてよくなるからだ。
僕はつい、色んなものを自分が得ていると思うと、それを失うことがものすごく怖くなる。
それは自分自身についてだけではなく、他の人間に関わることだと余計にそうだ。
僕が仕事で失敗をすれば、仕事仲間やクライアントが困る。
職を失えば、家族が困る。
そういった考えが、僕の行動を制限し、アイデアを委縮させ、脳を硬化させていく。
しかし、もし僕は今、何も得ていないとしたら?
僕が獲得できていると思っている全てのものが、
決して自分のものではないのであれば、
何かを失ったつもりでいても、実は何も失っていないことになる。
色々と迷うことが発生するたびに、僕はこの点に戻って考える。
失うものがない、と言うと、なんだかヤケクソの冷静さを欠いた判断が出てきそうだが、
実はその正反対で、頭がだんだん冷えていって、本当に自分が次に進みたい方向が見えてくる。
純粋に、自分がワクワクできるような行動を選択できるようになる。
それはなぜか?
答えは簡単である。
自分に何も得るものも、失うものもない時、
心の中には、好奇心だけが残っていることに気づくからである。