不安と、どうつきあうか。

今まであまり自分自身の不安と向き合うことが少なかったように思う。



若い頃は根拠のない自信に満ちていて、うまくいかなくてもなんとかなる、と思っていた。
年を取ると、その根拠が十分に作れている部分とそうではない部分ができてきて、なんでもかんでも「なんとかなる」というわけにはいかなくなってくる。
だけどそれを「うう…不安だ…」とまではっきりと自覚してこなかったと思う。
というか、自分で気づいていないふり、見ていないふりをしてきたのだ。

これまでは「ぼくは日曜日の夜が一番楽しい、明日から仕事で何をしようかワクワクしている」とうそぶいてきた。
だけど、今は、ああ明日から仕事が始まる、色々とうまくやりくりできるかなあ、と不安を感じている。
明日からのことに不安を感じる理由は色々ある。
一つには、仕事以外に楽しいことや気持ちが安らぐことが色々とあるからかもしれない。
子どもと一緒に本を読む時間、家族みんなでテレビを見る時間、食事をする時間。
あるいは小説を読む時間、こうやってブログを書く時間。

若い頃のぼくは仕事が人生の真ん中にあり、他のことは「余ったもの」でしかなかった。
ところがだんだん他にも大事なことが増えてくると、それにつれて不安も大きくなってきたように思う。
つまりは、自分が大事にしていることをこれからも守り続けられるだろうかという不安。
これまではぼくは仕事に対して全力で立ち向かってきていて、それでも自分が納得いく成果を挙げられたかというと微妙なところだ。
なのに、仕事以外の時間も大切にしている状態で、果たしてこの厳しい世界を戦い抜くことができるのだろうか。
それが、ぼくの主な不安であるような気がする。

と同時に、日曜日の夜には、多くの人たちがぼくと同じような不安を抱いていることだろう。
月曜日の朝から妙に張り切っている人や、ワーワー言っている人がいるけれども、実はそういう人たちの心の中も、本当は不安でいっぱいなのかもしれない。
なんとなく仕事では、自分が不安を感じていることを表明しづらい空気があったり、あるいは実際に「なんとなく不安です」と言っても、あいつは大丈夫かという目で見られるだけだったりする。
あるいはそうやってビビってしまったほうが負け、というような状況もあるだろう。
それでも、ぼくは自分が不安を感じていることを、ちゃんと自分で認めながら暮らしていこうと思う。
不安な気持ちも、うれしい気持ちも、モヤモヤした気持ちも、ちゃんと自分で感じていきたい。
それが人生のメインディッシュなのだ。
成功や失敗、勝ちや負け、そういったものは、おまけみたいなものだ。

そんなわけで、ちゃんと表明しよう。
ああ、明日が不安だ。
たまらない。
だけど、まあ寝るとしよう。
明日になれば、なんとかなるさ。

40代は、ズルいよ。

同年代の方々の、40歳になってからの人生について書かれている文章を読ませていただいた。

どうせ俺らは早く死ぬ - phaの日記
生きに生きて40歳、俺らは結構長く生きた - シロクマの屑籠
『自由』が『虚無』と化した先の人生の生きがいについて(あるいは個人主義と共同体主義の狭間で) - 自意識高い系男子
自分の人生に飽きたくない - インターネットの備忘録

40歳という年齢を前向きにとらえるのか、後ろ向きにとらえるのかについて、それぞれちょっとずつ見解が違う感じで面白かった。
一方で「40代っていうのは体力も気力も落ちてくるよね…人生も後半だって感じるよね…」というところはみなさん共通の見解のようだ。
それで、読んでいてふと「みんな、ズルいな」と思った。

自分のこれからの人生をどうとらえるのかは、その人次第であって、それは20代でも30代でも40代でも変わらない。
だけど40歳というのは「うう…40歳になっちゃったぜ…」というのを身体的にも精神的にも感じやすい。
それだけじゃなく、周りに対しても「もう中年なんで」「けっこう年を取っちゃいまして」と言ってしまえる年齢だと思う。
つまり、自他ともに認める「それなりに年を取ってしまった人間」になれちゃうのである。

今回エントリを書いている方々は「自分は年をとっちゃいまして」というゆるがぬ資格のようなものを手に入れていて、それをちらちらと見せびらかしながら、「さてこいつを使って何をしてやろうか」と思案してみせている。
実に楽しそうである。
これは、ズルい。
何を隠そう、ぼくがそうだからである。

いや、はじめの頃は割と真剣に悩んでいた。
40歳になるよりも少し前から人生に迷っていて、必死に人生二度目の自分探しをやったりしていて、それなりに苦しかった。
ところが実際に40歳になってからは、だんだん自分のあり方のようなものが定まってきて(正確には、定めない、という方向に定まってきて)深く悩まないようになってきた。
単純に40代の自分というものに慣れてきただけなのかもしれない。
そうなってくると非常にタチが悪い。
仕事中に、若い人と一緒に移動しているときに「ちょっと、こっちは年だからそんなに早く歩けないのよ、もっとゆっくり行こうよ」と付き合ってもらったり、「最近、老眼が進んでて小さい字が読みづらいから」という理由で、Excelが得意な人(この場合、相手の年齢は関係ない)に作業を頼んだりするようになる。
あるいは自分に対しても、夜眠くなってくると、気になっていることがあっても「ほんとはもうちょっと頑張らないといけないのかもしれないけど、この年で夜更かしは体によくないから寝よう」とさっさとあきらめたり、ちょっと欲しいなと思った服があっても「この年で無理にオシャレを頑張るのは逆にダサいからやめよう」などと自分に言い訳をしたりできるようになる。
40代の濫用である。

そう考えると、年を取るというのは、特別何かを一生懸命勉強して試験を受けたり、あるいは誰かから認定してもらうべく修養を積んだりせずとも、なんとかその年まで生き延びることができれば自動的に与えられる、大変手軽でパワーのあるライセンスなのである。
とかく昨今は、若くて成功する、つまりは人生のコスパの良さばかりが注目されているせいか、年を取ること自体に対して妙に後ろ向きにとらえる人が多い気がするけれども(そしてぼくもそうだったのだけれども)、いや、人生において何かゆるがぬ実績を作りたいなら、年を取るという誰の目からもわかりやすい、お得な方法があるよ、とお伝えしたい。

ところで、ちょっと思った。
そうなると、ぼくももっと年上の人たちを大事にしなきゃな、と。
だって、年寄りを大事にする国であり続けてくれないと、これから自分が困るもの。

ちゃんと、終わらせる。

毎日を丁寧に生きる、という考え方が苦手だ。

 

そんなひとつひとつのことにこだわって生きていたら本当にやりたいことができないじゃないか、と思っている。

だけど、そうやって生きている中で一体どこまでやりたいことを実現できたのかな、と考えてみるに、まあある程度やれたな、と思うこともあるし、やるやると言いながらもう何年もやってないな、ということもいくつもある。

そう考えると、もし今までの人生を、毎日を丁寧にやる生き方でやってきたとしても、たいして変わりはなかったかもしれないし、ひょっとしたらもっとマシな人生になっていたかもしれない。

まあそんなことを考えても仕方がない。

ただ、ふと思ったのは、丁寧にやる、というのはピンとこないが、ちゃんと終わらせる、というのは大事かもしれない、ということだ。

たとえ納得できない仕上がりであっても、まずは完成させる。たとえいつまでも終わらない作業だったとしても、その日にやるぶんだけは決めて、そこまではしっかりやる。

そうすることで今日の肩の荷が下りる。残った時間をやりたいことに使える。ついでになんだか気分も良い。

そういう経験は若い頃から何度かしてきたが、若いぼくには刺激が足りなく思えたのか、そこを追求する気は起こらなかった。今も別に真剣に研究しようというつもりはない。

だけど、世界が混沌としているとき、その霧の中を進んでいくしかないとき、手にしたものをちゃんと終わらせる、という発想が役に立つことはそれなりにありそうだな、という気がしている。

 

そんなわけで、まずは、この文章を書くのを終わらせるとするか。