11年間、子どもを保育園に送り続けて。

 

 

 

 

朝、子どもを保育園に送りはじめて、もうすぐ11年になる。

 

 

 

上の子が卒園したあとすぐに下の子も通いはじめたから、ほとんど途切れなしだ。

ようやく今年で下の子も卒園で、しかし妙に長かったなと数えてみたら、本当に長かった。

ぼくの社会人人生の半分近くの期間だ。

 

でも、もう11年になるというのに、朝保育園に子どもを送ってから仕事に行く、という生活にはいまだに慣れない。

早朝の仕事はできるだけ断るようにしているけど、なかなかそう簡単にいかず妻にあわてて代わりを頼まないといけないことがあるし、月曜日に限って雨の日が多くて(統計的にどうなのかは関係ない)布団の入った袋を抱えながら子どもが車にひかれないように目を配らないといけなくて、出社したときにはカバンも服もびしょびしょになっている。

あるいはプレゼンの前日に徹夜して、帰宅してシャワーを浴びたらそのまま保育園に向かい、着いてから水筒やら着替えやらを持っていくのを忘れたことに気づいて必死に取りに帰る、なんてことはしょっちゅうだ。

 

この精神修行のような11年間を過ごしている中で、色んな変化があったように思う。

世の中では父親が育児に関わることがどんどん当たり前になっていった。

12年近く前、上の子が生まれた頃、ぼくは仕事の中で、自分が父親になっていく体験をもとにした企画に取り組んでいたのだが、その時の周囲の反応は、父親が育児について考える視点は新しいよね、とか、オレにはよくわからんが独自性がある、とかいう感じだった。

朝の保育園でもぼく以外の父親を見かけることはそれほど多くなかったので、バタバタしている中でも父親同士は顔見知りになり、けっこう言葉を交わしていた。

今は送りにやってくる父親が増え、父親だけでなく家族同士で活発にコミュニケーションを取っている人たちも多く、ずいぶん様子が変わったなあと思う。

会社でも、今日はお迎えなので帰ります、と宣言する男性も増え、すごく寛容になったと感じる。

子どもを生んだ女性が職場復帰することがすごく増えたし、産休や育休でメンバーがしばらくいなくなることが判明した場合の周囲のうろたえ方も、今までよりはおだやかになったと思う。

突然の異動や退職と違ってあらかじめ準備ができることがわかってきたのだろう。

あとは採用面接で男性にこの会社は育休はちゃんと取れますか、と質問されたりもするようになった。

すごい変わりようだ。

ぼく自身もこの11年で変わった。

せっかく大事な時間と労力の一部を子育てに費やしてきたのだから、この世界は自分がいなくなったあとも続いてほしいなとは思うようになった。

 

あと、精神修行といえば、保育園の送りがなければもっと仕事に集中できたかもしれない、という思いはある。

もっと気軽に出張したり、早朝に勉強したりして、自分の強みを伸ばす機会が作れたかもしれない。

だけどまあ、ぼくは基本的にぐうたらなので、保育園の送りをしなくてよければそのぶんだけダラダラして無駄に時間を過ごしていたようにも思う。

子育てを通して気づいたのは、時間は有限で、やりたいことは無限で、だからこそ今しかできないことをビビらず、遠慮なくやっていこう、ということだ。

どうせ朝の時間は有効に使えない、土日も使えない、だったら何か未来のためにじっくりと努力することなんてやめて、目の前の現実に正面からぶつかって、何かを変えられないか色々もがいていこう、という構えになってきた。

 

まあ、あんまりかっこいい態度ではない。

いい年こいたおっさんが無様にあがいて、たくさん失敗して、ヒーヒー言ってるのはまったくもって恥ずかしい。

誰からも尊敬されない。

そういうのは若い人がやるべきことじゃないかという不安もある。

だけどまあそれでも別にいいかな、とも思ってて、少なくとも子育てという意味ではちょっとは社会に貢献しているのだから、あとの時間は自由にやらせてよ、と開き直ったりしている。

 

でも言っておくと、子育ては楽しい。

何が楽しいかといったら、いつも何か問題が発生するところだ。

物事がスムーズに行くことなんてない。

もしスムーズだとしたら、そこには何か隠れたトラブルが発生している。

そんな風に思っておかないといざというときに困る。

だけど、ああどうしようと困ったことも含めて、振り返ると全部楽しい。

もちろん、まだまだ振り返っている余裕なんてないけれども。

 

ぼくは救いようなく自分が好きで、自分のことばかり考えている人間だ。

いつも部下や仲間のことに気を配っている人を、ウソつけこの偽善野郎、と思っている。

そんなぼくでも見返りなしに人の役に立ち、人の成長を素直に喜べる。

それがぼくにとっての子育てだと思う。

 

まあ、早く解放されて、また自由の身に戻りたいとも思うけれども、そうなったときに振り返って楽しかったなあと思える程度にはやっていこうと思う。

 

11年は意外とあっという間だったし。

子どもと父親しかいない日の、すごしかた。

 

 

 

子ども二人とぼくが自宅にいて、妻が仕事に出ている、ということが時々あって、そういうときに試していること。

 

・めんどくさくても一日の予定を立てる

・予定を立てるときは、50分ごとに立てる

・特に宿題をやる集中力はそれくらいが限界、小学校の授業時間と同じ

・あいだに5〜10分休憩を入れる

・それ以上休むとリズムが崩れる

・先に何をどれくらいの時間でやるかを決めて、タイマーをうまく使って進行する

 

・親はできるだけ先回りして行動する

・宿題をやらせているあいだに昼食の用意をする

・昼食のときは気分転換に音楽をかける

・昼食を片付けながら午後にやることを確認したり、余裕があれば掃除機をかけたり他の用事をしておく

・昼食を食べてあとついダラダラしてしまうので、休みたい気持ちを我慢して、すぐに外に遊びに行く

・遊ぶときは夢中になって楽しむ、楽しめるようにゲームを考えたり、一緒に相談して内容を変えたりして、親のやりたいことを押しつけない

・三人しかいないとサッカーや野球などのスポーツはできないし、その練習を押しつけたりしない(そもそもちゃんと教えられない)

・走り回るとみんな気持ちがスッキリするので意外と短時間でも満足する

・疲れたら帰宅してちょっとダラダラする

・おやつを食べたりするのはこのタイミング

・ほんとはこのあいだに夕食の準備をしないといけないが、まだなかなかうまくいかない、お米を炊くセットをする程度

 

・夕食前はかなり集中力が切れているのであまり宿題をやる余裕はなく、簡単にできるものや続きを明日に回してもいいものを選ぶ

・おなかがすいてお菓子を食べたがる場合は先に風呂に入れてしまうのも良い、けっこう気がそれるし、気持ちがさっぱりするので落ち着く

・そこから妻が帰宅して夕食を作ってくれる場合はありがたくお任せする

・そうじゃない場合は、先回りして夕食の準備をする

天津飯とスープ、みたいな簡単料理でもみんなおなかすいてるのでパクパク食べる

・それまでにやるべきことをやってみんなスッキリしているので、夕食の時間はゆっくりできるし、子どもたちは疲れて早く寝る

・そこで発生した残り時間で勉強や仕事の準備ができたら最高なんだが、こっちも下の子を寝かしつけているうちに疲れて寝てしまったりする

・なかなか難しい

・だけどこんな日をすごせるのは人生の中でほんのわずかだと思うと、なんだかさみしい

・もっと他にやらないといけないことは大量にあって後ろめたい気持ちはあるが、まあできることをやる

人それぞれの価値観を大事にするのは、難しい。

 

 

 

え〜価値観は人それぞれ、と言いますが、これはすごく難しいことだと思いますね。

 

 

 

ご存知の通り、だいたいの場合、一人ひとりの価値観を大事にしている人のほうが、競争に負けます。

団体スポーツでチームメンバーの一人ひとりが違う価値観を持っていて、家族が大事だから強化合宿で練習は休みますとか、自分は人と争うことが嫌いだから勝つことにはこだわらず楽しくやりたいですとか、色んなことを言っていたら、まず試合に勝つことはできません。

企業同士の競争でも、従業員一人ひとりの価値観が大事だからと、それぞれのやりたいことばかりやらせている企業が生き残るのはレアケースで、周りからブラックと言われようが、従業員が同じ価値観を共有して全社一丸となって必死に働く企業のほうがどんどん市場を奪っていくわけです。

勝負にこだわればこだわるほど、人は多様な価値観を認め合うことよりも、ひとつだけの価値観、つまりは「勝ったほうが勝ち」というただひとつの正解だけを追い求めるようになり、その正解から遠そうなものを排除するようになるわけでございます。

 

人それぞれ、という考え方はそういう状況の中ではとても弱い。

一人ひとりが別々の価値観を持ち、別々の基準に従って動いていては、圧倒的に生産性が悪い。

ひとつの判断に基づいた命令を素早く理解し、目標をミスなく迅速に達成することを誰もが優先する、そういう考え方のほうがずっと効率が良い。

まあそんな状況です。

 

 

じゃあどんなときに「人それぞれ」という価値観が役立つかと申しますと、これはもう新しいものを生み出すときしかありません。

新しいものは異質な考え同士を持ち寄らないと生まれないので、当たり前の話ですが、要はそういうときにだけ役立つと決め込んでしまって、いつでもどこでも「人はみんな価値観はそれぞれなんだ!」なんてわめきまわるのはやめて、新しいものを必要としているところに自分から出かけていって、ほらこんな変な考えや面白い発想を持つ人たちがいっぱいいて、お互いのアイデアを組み合わせたらこんなことできちゃうじゃないですか、いやあ面白い、素晴らしい、たまらんなと、そうやって実践していくしかないと思うのであります。

 

それでまあ、実際にそう考えてみると、新しいものを必要としていないところなんてほとんどありません。

別に、いつも創造的なものを生み出し続けているような場面だけじゃあない。

生産性を追い求めている状況であれば、じゃあもっと効率よく仕事を回していくにはどうしたらいいのか、そのアイデアはいつだって必要とされているし、同じことばっかりやり続けてすっかり飽きてしまっている人たちの元気ができるような刺激的な考え方だって必要とされています。

そういうところで、人それぞれの違った価値観をうまく組み合わせながら、地道に新しいものを生み出していけばいいわけであります。

 

それでまあ勝ち負けとか競争とかいう話に戻ると、ぼくにとっての勝負というのは、そうやって毎日の中でどれだけ新しいものを生み出しているか、その勝負でしかないと思うのです。

新しいものを生み出すというと、何か特別なものでないといけないように思われるかもしれませんが、ちょっとおいしいコーヒーの入れ方がわかったとか、ちょっと楽にトイレを掃除する方法を見つけたとか、ちょっと集中力がアップする椅子の座り方を考えたとか、そういうことを少しでも積み上げていけばいいだけなのであります。

 

それでまあ、そういうことが面倒になって、一発逆転で世の中をひっくり返してやるんだと考えて、そのためにはライバルをやっつけ、敵を完膚なきまでに叩きのめし、圧倒的な勝利を納めなければいけないんだ、そのためならすべてのものを犠牲にしてもいいんだ、とまあそういう風に考えるようになったら、それが完全な敗北だと、まあそう思うわけであります。

まあそう思わない人がいたってしかたないですがね。

 

価値観は、人それぞれですから。