見えない糸が、見えない人。




自転車が壊れたので修理をしてもらいにいった。



ふたたび走れるようになった自転車に乗って、ラジオを聴きながら家に戻る、その時間がすごく気持ちよかった。

今年の大阪はあまり寒くない。
去年は寒さに耐えきれずにフェイクファーのついたちょっと丈の長めのダウンジャケットを買ったけど、今年は出番がないかもしれない。
ただダウンジャケットは中にあまり重ね着をしなくていいので、オフィスの中でよく体を動かす日には役に立つ。
来年はできるだけたくさん体を動かして働きたいなと思う。

今朝ふと思ったのだけど、大学生の頃はまったくモテなかった。
ちょっといいなと思った子とちょっとした話をするんだが、その子にはすでにお目当ての男子がいたり、あるいは単純にぼくには興味を持ってもらえず、いつもうまくいかない。
なにか見えない糸のようなものがあって、その子や周りの子たちにはそれが見えて、その糸をたぐりよせながら仲良くなっていくが、ぼくにはそれが全く見えないので、ずっとひとりなのだ。
それは同じ趣味だったりサークル活動だったりゼミだったりあるいは何か別の関係性だったりするのかもしれないけど、とにかくその正体はよくわからなかった。
いまだによくわからない。

今はそういった感覚はあまりないけれど、それは仕事という決めごとの中にいるおかげであって、その証拠に仕事以外の目的で集まったりする場では、やっぱり挙動不審になってしまう。

仕事は見える糸だ。
何が目的で、何が手段で、そこに何が不足していて、何が余っていて、自分がどの糸をつかまえて、どう引っ張ればいいかを考えることができる。
うまくいかなければ別の糸を引っ張ってみればいい。

だけど仕事ではない、何かもっとちゃんとした人や友だちがたくさんいる人にしか見えないような種類の糸は、ぼくにはさっぱり見えない。

まあそういう不完全な人間だから、本を読んだり音楽を聴いたりして、ひとりでも楽しめる方法を探していたのだろうし、その結果ひとりでも割と楽しくいられるようになった。

だけど、いくらひとりで楽しくすごす方法について詳しくなっても、誰かの役に立たないとつまらない、というのがいまのところの結論かもしれない。
自分がひとりの時間をすごすあいだに身につけた技術とか、あるいは無理して人と協力しているうちにできるようになったこととか、そういったものを使って人の役に立つ。

ただまあそう書くとすごく教条的で退屈な感じがするけど、それは慈善活動みたいな素晴らしいもんじゃなく、自分が気持ちよくなるためだけに必要な何かなんだろう。

その欲望を手っ取り早く満たせるのはやっぱり仕事だが、他にもいくつかの方法はあるかもしれない。

これからはそのあたりについてもうちょっと探っていくことになるだろう。



あまりあせらず、ラジオでも聴きながら。

冬ごもり、はじめました。



大阪はそんなに寒くないけれど、そろそろ冬ごもり。



色々と心残りなことだらけだが、これ以上あがいてもしかたなさそうなので、仕事のことばかり考えている頭を休ませて、冬の生活を楽しむことにする。
もっとも楽しむといっても毎日いくらでもやることはあって、それを普段はやらずにすませてきているだけなので、頭を休ませるぶん体にはしっかり働いてもらわないといけない。

以前、得意先の職場にお邪魔してそこの人たちと一緒に仕事をしていたことがあって、もちろん新しい環境に慣れるのは大変だったけど、実はそれはそれで楽だなと思った。
自分のやることが目の前にだけあって、他のことについてはほとんど考えなくてよかったからだ。
もともといくつものことを同時に考えられるほうではないくせに、ついあれもこれもと色んなことが気になっていると、それぞれがおろそかになっていくし、おまけにずっと頭の中で何かがぐるぐると回り続けているので、横になってもそのぐるぐるが止まらなくて、ちゃんと眠っていない。
ところがひとつの職場でひとつの目的のためだけに夢中になって働いていると、帰宅したときにはヘトヘトになっているので余計なことを考える余裕なんてなかった。
それは新鮮な体験だった。

子どもが生まれたときに2週間ほど休んで家の用事ばかりしていたことがあって、これはなかなかキツくて、これにくらべたらサラリーマンの仕事なんてずっと楽だなと思ったけど、それも良い気分転換にはなったと思う。

今回はそんな特別な機会も何もないけれども、少し無理をしすぎてガタがきているので、ああでもないこうでもないと無駄にぐるぐる考えるのはやめて、冬ごもり。

大阪はそんなに寒くないけど。

歩くように、生きる。



あとひと月で今年が終わる。



この1年は、自分なりに達成したいことがあったので、ずっと急いでいた。
とてもあせっていて、あっちのほうに進みたい、というものはあって、だけどもっと近くまで行って自分の目で確かめてみないとわからない、そんな状態でいた。
ところがその道中で、後ろから誰かが追いかけてきて、人手が足りなくて困っているからちょっと戻ってきて手伝ってくれとひきとめられたり、あるいは同行している人が進むペースが速すぎて辛いと訴えだしたり、そんな様子を通りすがりの人に見とがめられて注意を受けたり、そうやってモタモタしているうちに時間だけが過ぎていった。
そんな1年だった。
まだあとひと月残っているけど、まあそんなにたくさんは進めないだろう。

そうやって振り返ってみると、まったくもって満足のいかなかった1年だったな、と思う。
これからのことを考えると、ひどく気持ちはあせるし、頭が痛くなってくる。
だけど、まああせったところで状況は変わらないし、少なくとも進む方向だけは定まっているのだから、ずいぶんマシだと思うしかない。

よく考えてみたら、ぼくは厄年の最後の年だ。
それにしてはまあ無病息災だったほうじゃないだろうか。
夏にちょっと腕をケガしてしばらく行動するスピードが落ちたのは辛かったけど、無事に腕も動くようになったし、この程度で済んでよかったと思うべきなのだろう。
まったく余裕のない毎日だけれども、家族に大きなケガも病気もなく、なんとか1年を乗り切れそうで、それを感謝するべきなのだろう。

中学生の頃、塾の先生から、受験は短距離走ではなく長距離走です、いきなりスパートをかけてもすぐになんとかなるような世界ではありません、あせらず粘っていきましょう、というアドバイスをもらったことを憶えている。
そして、年を取って、いまやぼくが取り組んでいるのは長距離走ですらなく、ひたすら自分のペースで歩き続けることなのかもなあと思う。
歩くスピードというのは決して速くないので、なかなか目的地までたどり着くことはできない。

ひょっとしたら、本当にぼくが求めていることは目的地までたどり着くことではなくて、ただ歩いていくその行為なのかもしれない。
歩いていけば、天気も変わる、周りの景色も変わる、出会う人もいれば別れる人もいる。
ちょっとおいしいパン屋が見つかることもあるし、コンビニひとつないような場所を空きっ腹を抱えながらトボトボと行くしかないこともある。
だけど、歩くスピードでなら、そういった変化のひとつひとつを味わいながら、自分の好きなペースで進んでいくことができる。

もちろん、遠くに行く必要があったら電車でもバスでも飛行機でも乗るけれども、そうやってどこか遠くへと移動して、またその先で自分の足で歩く。
自分の足で歩いて、地面の感触を確かめ、そこに転がっている石の形を観察し、落ちているゴミを拾い上げ、あたりから漂ってくる何かを焼くおいしそうな匂いをたどり、同じように腹を空かせた人と出会って、おしゃべりしながら進んでいくことだってできる。
その楽しみを味わうために生きているんじゃないかなあと思う。

だから、まああんまりあせらずに、これからも歩き続けていきたい。