火の中に、飛びこむ。

 

 

 

自分から一番大変なところに飛びこんじゃえって思ったんです。

 

 

 

一緒に仕事をしている若者がぼくに教えてくれた。

先週あたりからずっと忙しくてなかなかフォローができなかったのだが、見事に一人で業務をやってのけて、その感想だ。

いつも余裕がなく焦っていたのだが、あえて自分から一番大変な役割を引き受けて最前線でやってみたら、やるべきことが明確になって、逆に落ち着いて取り組めることに気づいたそうだ。

 

乱暴に言うけれども、だいたいのことはそうなんじゃないだろうか。

 

一番キツイところ、絶対に逃げられないところに自分から突っ込んでいって、歯を食いしばって、恥も外聞も投げ捨てて、なんとか乗り切ったとき、人は大きく成長する。

 

そしてそれは、年を取った人間にだって必要な経験なんじゃないかな、と思う。

 

すぐに俺は年だからとかそんな現場仕事なんてとか思ってしまうが、キツイ場面から離れてしまうとすぐに感覚が鈍り、動きも緩慢になり、もっと恐ろしいことには好奇心も失われてしまう。

 

 

ぼくは長いあいだ、自分のやりたいことを失ってすっかり停滞していた時期があって、どうすれば再び夢中になれるものに出会えるのかと悩んでいた。

 

だけどその答えは実は簡単で、枠の外に出なさい、快適な空間から抜け出して、キツイところ、怖いところ、不安なところ、そういう場所へと飛びこみなさい、ということなのだ。

 

若い頃はそんなことしなくても、周りがどんどん火の中へと放りこんでくれたが、すっかり年を取り、できることの中から動かずにいると、そのまま何も起きず、冒険心を失い、勝手に弱っていく。

 

世の中の停滞しているおっさんに必要なのは冒険だ。

 

炎の中に自ら飛びこみ、ひどい目にあって、いい年こいてヒイヒイ泣いて、周りの目を気にしてる余裕もなく助けを求め、それでも逃げずに一番危険な場所に向かっていく体験だ。

 

心配することはあまりない。

 

おっさんは見た目が不気味なぶん意外と押しが効く。

 

いい年こいた中年男が必死に頭を下げてきたら、それはそれで妙な迫力がある。

 

あるいは難しい顔をして立ち上がるだけで、なんだか話を聞かないといけない空気も出る。

 

そして何より、我々中年男はキラキラした前途有望な若者たちと違って、余命が圧倒的に少ないのである。

 

このまま同じことを繰り返して残り時間を浪費するヒマがあるなら、多少残量が減ろうが、失われた好奇心がよみがえり、刺激にあふれ、持てる力をふりしぼって夢中に取り組める、そんな時間を少しでも過ごしたい。

 

よく、常識を越える発想をしようとか言うが、そういう発想は、枠から実際にはみ出てみないと得られないように思う。

 

ごちゃごちゃ言うより、一歩踏み出す。

 

飛んで火に入るおっさんは、自分の意志で飛びこむのである。

まだ結婚している、男。

 

 

 

めったにテレビを見ない。

 

 

 

特にテレビドラマなんて10年以上ちゃんと見たことはない。

だけど昔好きだった関西テレビ放送のドラマ『結婚できない男』が、『まだ結婚できない男』として復活すると聞いて、それだけはずっと楽しみにしていた。

 

とはいえ火曜日の9時なんて時間にゆっくりテレビドラマを見る余裕なんてなく、毎回見逃し配信のお世話になっている。

 

それにしても、13年ぶりの復活だそうで、もうそんなに経つとすっかり「結婚できない」ことの何がいけないの、という時代になってしまっていて、見ているこっちは阿部寛さん演じる主役の桑野信介の日常を、ひとつの人生の完成形として鑑賞しているような気がする。

 

自宅で大音量でクラシックをかけて、恍惚の表情で指揮者ごっこを楽しみ、店で一人鍋を満喫し、夜遅くまで理想の設計の追求に夢中になっている桑野の暮らしは、現代におけるひとつの憧憬なんじゃないだろうか。

 

前作『結婚できない男』は、好きな仕事で稼ぎ、ハンサムで、自分が一人で楽しめる技術に長け、しかし結婚だけができない(あるいは恋愛ができない)点だけが彼の隠れた弱さとして滑稽に描かれていた。

 

しかし、いま『まだ結婚できない男』を見ていると、彼には急に飲みに誘える義兄がいて、法律相談のついでに人生観について語り合える女友達がいて、彼に果敢に絡んでくる職場の後輩たちがいる。

 

社会資本も十分に豊かな人生を送っている桑野信介には、結婚しないといけない理由なんて、特にないのだ。

 

こうなると、桑野は「まだ結婚できない男」ではなく「もう結婚しなくてよい男」であり、ぼくのほうが「まだ結婚(というものにとらわれて)している男」だと思えてくる。

 

ただまあ、何が幸せかというのはその人にしかわからない。

桑野のように多くのものを持っているからこそ、満たされないものが実は気になって仕方がない、という場合もあるだろうし、ぼくのように結婚や子育てを経験しているからこそ、自由な時間の貴重さを身にしみて感じる、ということもあるだろう。

 

つまりは幸せの形はみな違っていて、それぞれがそれなりにモヤモヤしたものを抱えながら生きてる、というわけだが、それにしたって自宅で一人遊びに興じる桑野の姿を見ていると、ぼくは何か大事なものを忘れて暮らしているような気がしてしまう。

 

それは、自分自身というかけがえのない伴侶をちゃんと大事にしてるかな、という、そんなに普段は気にかけているわけじゃないが、しかしずっと心のどこかでくすぶっている小さな疑問なのかもしれない。

正しさが、世界をつまらなくしている。

 

 

 

論理が人間の文明を発達させてきたのは間違いないと思う。

 

 

 

だけど世の中の全てのものがまだ論理的に説明しきれるものではない。

なのに現時点で全ての現象が全て説明しきれる、正しい世界の見方がある、と思いこむのは、すごく苦しい生き方だと思う。

 

あなたは前、こういうことを言いましたよね、なのに今度は違うことを言ってる、と怒る人がいるけれど、それは当たり前の話で、人間の考えは変わっていくものだし、変わらない人のほうが本当に大丈夫かなと思ってしまう。

 

正しさばかりを気にしている人は、雷に打たれるような突然のひらめきや、いきなり恋に落ちるときめきを味わったことはないのだろうか。

いや、きっとあるはずで、しかしそれはとても個人的な現象だからと片付けてしまいがちだ。

 

なぜ、正しさばかりを気にする人は、個人的で、論理的に説明ができなくて、わけのわからぬ感情を、他人に表明したり、問題提起したりするものではない、と思いこんでいるのだろう。

 

そのわけのわからぬ感情こそが、誰かが困っている状況を明らかにし、あるいはうれしいと感じることを共有し、今よりもっとマシな世界を作る原動力になるはずなのに。

 

どうか、正しさばかりを気にする人よ、論理という鎧に身を固め、理解できないものを無視し、自分の心の声に耳をふさぐのを、ちょっとやめてみてほしい。

 

そこに、あなたが本当に欲しかった答えが転がってないだろうか。