波乱万丈に、生きたい。

 

 

 

 

小説や映画、マンガ、ゲームなどで、物語の本題というよりも、その本題のせいで大変な人生を送らざるをえない人たちが束の間の休息をとる場面のほうが、印象に残ることが多い。

 

 

 

むしろ登場人物たちが送る人生が苛烈であればそれだけ余計に、ほっと息をつく瞬間がとても貴重でかけがえのないものに感じる。

 

よく考えると、休息というのはそういうものかもしれなくて、あくまで何か厳しい世界で生き残るための活動が人生の中心にあり、休みとは、それを続けるために必要なもの、という見方は割と一般的なものかもしれない。

 

しかし、全体の上がったり下がったりがもっとゆるやかで、まあまったくの平坦とは言えないけれども、その中での小さな変化に細やかに気づき、そこに面白いものがあれば喜びを感じ、そこにほころびがあれば丁寧に修理していく、というような人生観もあるだろう。

 

バランスの問題だとは思うが、さて苛烈な人生と、丁寧な人生、どちらが好みなのかといえば、なんとなく苛烈なほうが好きかなと思うところがあって、理由はよくわからないが、ことさら苛烈に生きたい、というわけではなく、やるべきことを徹底的に、疲れ果てるまでやって、パタッと休む、というような感覚が自分の中では強くて、毎日同じペースで少し進んで少し休み、また少し進んで少し休み、ということが苦手なのである。

 

しかしまあそれもとらえ方次第であって、傍目にはものすごく苛烈な人生を送っているように見える人でも、本人は毎日を丁寧に暮らしているつもりだったり、あるいはその逆だったりするので、ぼくは自分の感じていることについて話すことしかできないのである。

 

話はちょっと変わるが、ドラゴンボール精神と時の部屋というものがあって、そこでの一日は普通の世界の一年に相当するらしく、ちょっと憧れる。

 

ここのところ、一日が本当に短く感じられて、朝起きたと思ったらもう昼飯を食べなければいけない、あるいはもう帰宅しなければいけない、そしてもう寝なければいけない、となってしまう。

 

最近は特に、仕事のある日は昼食をとる時間がもったいない気がしていて、前もってコンビニのおにぎりやサンドイッチを買ってきて、食べながら用事をしていたりする。

 

用事といっても、こうやってブログを書いたり、読みたい本を読んだり、情報収集をしているだけだが、それがいい気分転換になるのである。

 

苛烈とはとても言えないが、それなりに過密な時間の中での息抜きであり、しかしそのほんの三十分ぐらいの休息が妙に満足を与えてくれるから不思議である。

 

それでまあ、朝起きて仕事に出かけ、昼飯を食べながら本を読み、早く帰宅できた日は子どもと風呂に入る、そうでない日は深夜に帰ってきてさっさと寝る、というような毎日を繰り返しているぼくの人生は、どちらかといえば苛烈な人生というよりも、平凡なつまらん人生と言える。

 

それでも本人からすればそれなりに変化に富んだ、なかなか激しい人生を生きていると思っているのだから不思議なものだ。

 

そんなわけで、人生の評価なんてものは当人の感じ方次第なので、他人による批評など何のあてにもならないのである。

 

 

どう生きるかは思ったよりも自由に選べないが、しかしどう感じながら生きるかは、ぼくらが思うよりもずっと自由なのである。

言いにくい、欲求。




わが家では妻がカリスマ的リーダーである。



ぼくは子どもたちと並列(あるいはそれよりも下)で彼女のフォロワーである。

会社で働いていると、いかに仕事の中でリーダーシップを発揮したか、ということばかりを問われるし、実際にそういう役割を自分がやらないと物事が進まなくて困ることが多い。

また、そもそもぼくという人間は非常に自分本位な人間で、基本的になんでも自分が思ったようにいかないと気が済まない性格なので、だったら自分がリーダーとして動き、しかし自分の思った通りに他の人が動いてくれるわけではないので、一緒にやってくれる人たちのことにも気を配りながら進めるしかない、などとどうも勝手に思い込んでいるような気がする。

しかし当然ながら他の人たちも同じように思っているわけで、お互いに誰がこの仕事のリーダーシップをとるのか、ということに関心を寄せ、常に狙っていて、しかしその勝負は割と一瞬にして決まるので、ああ今回はあいつがリーダーかあ、と思いながらじっと黙って言うことを聞く人もいるし、これはつまんねえなとスッといなくなる人もいる。

どうもぼくは仕事をしていると、そういうところで無駄に神経をすり減らしている部分があるなあと感じていて、しかしまあ今はもうそんな何でもかんでも仕切らないと気が済まないような年齢でもないし、おっさんになるとみんなが腫れ物に触るように接してくれるので、そんなにひどく悩んでいるというわけではない。

ただ、なんとなく、誰か(それは一人とは限らないが)絶対的な存在に対して完全に服従する、というようなことにはものすごい抵抗感があって、たまにそういうことが要求される場面に出くわすと理由もなく歯向かいたくなるのである。

もちろんサラリーマンとしてそういう性格は決して良い方向には転ばないのであって、どれだけ耐えられないと思っていてもグッとこらえるしかないし、それでもやっぱりこの人の言っていることはおかしいと思った場合はやり合うしかない場合もあるし、なんとかその間をうまく行けたらいいのだが、そんなにいつも成功するわけではない。

何を長々と言い訳をしているかというと、本当はぼくの中に、何か絶対的な存在に対して、余計なことをああだこうだと考えるのをやめ、全面的に降伏して完全に服従してしまいたい、というような欲求もあるように思うのである。

しかしもちろん、人間たるものそういう態度を取るべきではない、とも思っていて、先の戦争に代表されるように、思考停止で何かに完全服従することはもはや悪そのものだという意識は、ぼくだけでなく、多くの人が持っているのではないだろうか。

わかってはいるが、しかしぼくはどうも心のどこかで、誰かに心酔し、傾倒し、その人の言っていることは絶対なのだとすべてを受け入れ従いたい、そういう欲求を持っているように思うのである。

ぼくの場合は、それが妻である。

ちなみに妻が絶対的存在であると、いいことがある。

それは、どれだけエラい人の話も、あんまり真剣に受け止めなくなることである。

ぼくにはもう自分が心から尊敬し服従するべき対象があるので、他にどれだけカリスマがあって、権力があって、ぼくに対する生殺与奪権がある人がいても、だからなんなんだと思うようになる。

ぼくにとっては、そんなエラい人の言うことよりも、妻が言うことのほうがずっと正しく、重く、神聖だからである。


信仰というのは、そういうところから生まれるのかもしれないな、とふと思う。

厳しい競争にさらされ、信じていた人間から裏切られたり、あるいは絶対だと思っていた権力者が突然失脚したり、そういう現実の中で生きているうちに、人は何か別の、神聖な存在に従いたいと思うようになるのではないだろうか。

もちろん、何かに盲目的に服従することを手放しで喜ぶことは、やっぱりできないだろう。

ぼくが言いたいのは、そういうことではなくて、誰もが尊敬する人物や誰もが従う存在を、そうしなければいけないと思い込んでみんなと同じように完全服従する必要なんかなくて、それよりも自分だけの絶対的存在を崇め、心の頼りにするほうがずっと自由じゃないだろうか、ということである。


何かへの服従が、自由をもたらす、というのは不思議な感じではあるけれども。

幸せの、ありか。

 

 

 

幸せとは何かといえば、それはぽんずしょうゆのある家だと決まっていて、ぼくはそういう、人生の先輩たちが作ってきた価値観の中で育ってきた。

 

 

 

となりのトトロはまあ実在はしないけど、自然は大事にしなきゃいけないよね、ぐらいは思っていて、スーパーサイヤ人にはなれないが、やられてもやられてもあきらめなければ強くなれるとは信じていたような気がする。

 

ぼくの父親は広告会社のデザイナーをしていて、まさか自分も同じ世界で働くようになるなんてことは夢にも思ってなかったが、母親もファッションデザイナーだったし、まあまともな環境ではない。

 

新しいことはいいことで、消費することは娯楽で、こだわりを持つのは正義だった。

 

そう考えると、ぼくは40年以上生きてきて、割と価値観が変わったなあと思うことも多い。

 

新しいことは人から教えてもらって知ることばかりだし、大量消費をするほどのパワーは持ち合わせていないし、こだわりはボツになった企画書と一緒にシュレッダー行きだ。

 

もちろん、変わらないことや、形は変わってもずっと大事にしていることというのはいくつもあって、だからこそああ自分の価値観も変わったなあ、なんて余裕こいていられるのだ。

 

いや、きっと色々とひどい目にもあったような気がするし、バカな失敗もたくさんやらかしてきたような気がして、そういう社会勉強の中で、多少はまともな人間になろうとして、価値観を無理にゆがめてきた部分も大きいような気もする。

 

あるいは、自分のこだわりが強すぎて、自分らしい価値観を作り直さなくてはという強迫観念にとらわれて、ずっと苦しんでいたような気もする。

 

ちょっと前までは、過去について思い出すたびに、そういう辛かったときのことばかりが思い出され、またグツグツと恨みのエネルギーが再燃し出したりしていた。

 

ところが最近は、なぜか楽しかったこと、うれしかったことばかりを思い出す。

 

たぶん子どもたちとドラゴンボール超の映画を観に行ったり、一緒にキャッチボールをしたりしていることが直接のきっかけのように思うが、それと同時に、ああ自分の人生はしかしまあ幸せな時間ばかりで構成されているなあとも思うのである。

 

もちろん、その時間を得るためにぼく自身が努力してきたということもあるけど、だとしたらそんな努力がちゃんと報われる機会がある、という幸運自体がすごいことなのである。

 

あるいは、努力が報われなくたって、今こうやって生きてブログを書いていられることがすごい。

 

おまけにこんなどうでもいい話を読んでくれる人がいてくれるのが本当にありがたい。

 

そんな風に最近はよく思う。

 

まあこれからの自分はひたすら老化の一方通行で、能力が向上することはない。

 

毎日、人生の終わりへと近づいていっている。

 

もうこれ以上幸せに生きることはできないだろう。

 

そう考えても、あんまり気分は悪くない。

 

幸せというのは、ぽんずしょうゆのある家であり、少なくともぼくはそんな家で暮らすことができたわけだから。

 

 

 

あとは何でもいいから、他の人たちの幸せに役立つ、少しはマシな何かを残していけたら、もう何も言いたいことはなくなるような気がする。