スーツの上に、何を着るか問題。



いろんなものを重ねて着るのは避けたいのだ。



理想は、シャツを着た、ジャケットを着た、その上にあと一枚何かを着た、という3枚だ。

そうすればそうでなくてもクソ忙しい朝の服を着る時間が短くなるとか、へとへとになって帰ってきたときでも楽に脱げるとか、まあそういう理由はどうでもよろしい、要はシンプルにしたいのだ。

ところが現実はそう簡単ではなくて、シャツの下に何か肌着的な、できればちょっと体温が逃げないみたいな工夫がしてあるやつをつい一枚着たくなるし、まあそれは好みの範囲だとしても、やはりジャケットの上にコートを一枚だけ着ると、心もとない。

おまけにそのコートが、よくあるジャケットと似たような仕様の、胸のところが開いているやつだと胸から首にかけてのスースーが耐えられない。

耐えられない結果、マフラーをする。

もっとタチの悪いのは、マフラーをしたついでに手袋までしてしまう。

こうなるとせっかくシンプルに行こうとしていた計画が台無しである。

シンプルでない上に、いちいちマフラーや手袋を付けたり外したりすることが面倒な上に、落とし物の危機にさらされることになる。

特にこの飲み会の多い季節である。

酔っぱらっている状態で、会社用のスマホに自分用のスマホに財布にICカードにほにゃららにと色んなものをなくさないように気を配らないといけないのに、マフラーや手袋の管理までしていては大変だ。

ものすごいストレス!

ストレスと言われてみれば、気のせいかコートってちょっと重いし、肩が凝るようにも思い始めてきた。

ネクタイしめてジャケット着ているだけでも肩が凝るのだ、この上にさらなる負荷は避けたい。

ううん、厳しいぞコート。

となるとコートをあきらめて、ダウンジャケットである。

ダウンジャケットはすごい。

シャツを着た、ジャケットを着た、ダウンジャケットを着た、この3枚で、まあ大阪や東京の冬ならだいたい大丈夫である、これはたしかにすごい。

ただ残念なことに、とにかくモコモコしている。

寒い外を歩いているときはあまり気にならないのだが、暖かい屋内に入ったときに自分だけモコモコしていると、何一人でモコモコしてるんだと、ひどくバカげて見える。

おまけに、うっかり満員電車に乗ってしまうと、過剰に熱を吸いこんでしまったモコモコに身体をしめあげられて脂汗をダラダラ流し、ハアハアと気味の悪い声を上げながら苦しむこととなる。

相当気持ち悪い。

いやいや今は薄くておしゃれなダウンジャケットもありますよと諸兄はおっしゃるかもしれないが、そういうダウンジャケットというのは総じて値段が高い、そんな高額なダウンジャケットを買ってしまっては、汚さぬように、傷つけぬようにと気を使ってしまって、これまた無駄に肩が凝る、必要な時にサッと着て、いらなくなったらサッと脱ぐ、そういう気軽な感じが、高級で薄くておしゃれなダウンジャケットには全くない、これでは本末転倒である。

さあて、一体何を着ればよいのか、さっぱりわからなくなってきた。

ならば流行のなんたらテックのような軽くて安いものを着たらいいじゃないかという諸兄もおられるだろうが、これがなかなか厳しい。

スーツの上にあのツルツルした素材のなんたらテックを着ると、なぜかだいたいの男性は、会社のジャンパーを着てるのとほぼ変わらないシルエットになるのである。

これなら会社のジャンパーを着ていたらいいではないか、支給されるのならお金もいらないし。

いやむしろ、それが正解なのかもしれない。

どうせ会社に通うため、あるいは会社の仕事をするために外出しているのであれば、会社のジャンパーを着て通勤すればいいのだ。

私は会社の仕事をするために移動している最中なのですよ、と周りからもわかりやすい。

なんて開き直っても何の解決にもならない。

それじゃ少し趣向を変えてみようかと、
ちょっとカジュアルなカーキ色のジャケットを着ればみんな出世ルートから外れた所轄の刑事になる。

がんばって皮のジャケットを着てみれば出世ルートから外れたあと闇の組織から裏金受け取ってる刑事になる。

思い切って変わった素材や色のジャケットに挑戦すれば出世ルートからはまだ外れてないがこのあと犯罪組織への潜入捜査がバレて見せしめで殺される刑事になる。

結局、何着ても刑事になる問題!

一体、いつになれば冬の上着に関する答えが見つかるのか。



今のところは、完全に迷宮入りしているのである。

好きは、本当に好きなのか。




好きなことを仕事にするべきかどうか。



id:fktackさんの記事を読んでいて、fktackさんは、好きなことができる会社に転職するから辞めるという後輩としゃべってから、後でこう思ったそうだ。

好きもいいけれど仕事は他人のやりたがらないことをするとポイントが高い 誰でもできるがなるたけやらずに済まそうとすることが良い しかしポイントとはお金のことではなく 居心地とかそんなのだ

好きというのは足枷だ - 意味をあたえる


ちょうど最近、会社の後輩とそういう話をしていて、人には「やりたいことがある人」と「ありたい自分がある人」がいて、まあ無理に二つに分けなくても誰だってその両方があるのだけど、いぬじんさんのようにいつも何かやりたいことがある人ばっかりじゃないんですよ世の中はとその後輩から言われたところだった。

そんな風に言われると、自分はいつもやりたいことがある、好きなことがある状態だったのかと振り返ってみるに、果たしてそれが「やりたいこと」なのか、自分として勝手に「やらなければいけないこと」と思い込んでいるだけなのか、そのあたりは怪しい。

コピーライターを目指していたときも、コピーを書きたいというよりは、自分はコピーを書かなければいけない、そうじゃないとダメなんだという妙に切迫した気持ちが強かったような気がするし、コピーを書き出してからも、いいコピーを書かなくちゃいけない、というやっぱり切羽詰まった感情をいつも持っていた。

じゃあそれが楽しかったのかどうかと言われるとよくわからなくて、楽しいこともたくさんあったが同じかそれ以上に辛いこともあって、だから今はコピーを書かなくてよくなってちょっとほっとしている部分も正直あるように思う。

そう考えてみると、ぼくの場合は「好きなこと」というのはどこかで「やりたいこと」から「やらなければいけないこと」に変わっていく傾向があって、そのうちそれが辛くなってくるので、何かの理由でそれができなくなっても、会社から無理やり異動させられたりしても、それはそれで内心は解放されて気分転換になっているのかもしれない。

あるいは、ぼくは頭のどこかで、いつもやりたいことをやらなければいけない、というように自分に言い聞かせているかもしれなくて、もしそうだとしたらそれはそれで他人の目から見れば苦しい生き方のようにも思えてくる。

しかしぼくはたいして苦しいとは思っていなくて、それはぼくの全てが「やりたいこと」で満たされているわけではないからであって、いつもぼく以外の何か、急な部署異動やわけのわからない相談や子どもの急な発熱や新幹線の立往生によって影響を受け、「やりたいこと」自体が変わり続けていくからである。

そう考えると、人間は好きなことだけじゃ生きていけないというか、つまらないというか、他人のやりたがらない仕事もやったり、あるいは全く何にもやらなかったりしているうちにまた新しい楽しみが見つかったりするので、あまり好きかどうかということにこだわりすぎても仕方ないのかもしれない。

ここまで書いていて思ったことだが、自分が本当に求めていることは、自由、というものに近い気がして、それは全てのものから解き放たれた自由というよりは、何かを勝手に好きになる自由、というイメージがある。

ということは反対に、嫌いになる自由や、飽きる自由もあってもいいわけである。

であれば、自分ができることは色々あったほうが好きになれる選択肢は広がるし、嫌いになっても別の好きを探しに行くことができる。

問題は、年をとるとできないことも増えてくるので、新しい好きを見つけるよりも、深めていくほうに目が行くような気もする。



しかし視野が広がるので新しい好きがより見つけやすくなるような気もする。

やりたいことは、必要か。


今の世の中には、やりたいことを見つける能力自体に格差があるのではないか、というid:lets0720さんの記事を読んだ。

近年、富の格差や教育格差の深刻さが叫ばれているが、それ以上に深刻なのがモチベーションの格差ではないかと思う。どれだけ所得があっても、どれだけ高度な教育を施されても、そこになんらかの動機を見出せなければ、生きる気力を維持できない。

http://www.sekaihaasobiba.com/entry/2017/12/03/172040


やりたいこと、モチベーション、動機、これらはそれぞれ微妙に違うようには思うが、とにかくそういうものを持っていないと生きていけない、というのは事実ではなく、言説にすぎない。

別に特別何かやりたいことがなくても、ただ生きたい、とにかく死にたくない、だから生きてる、というような生き方だってある。

問題は、やりたいこと、自己実現、夢、そういうものがないと生きてる意味がない、という文脈を受け入れて暮らしているかどうか、ということじゃないだろうか。

もっと言えば、ぼくはこういうことがやりたくて生きてます、と他者に表明できるようなものを持つべきだという文脈である。

社会貢献をしたいです、困った人を助けたいです、世界中を笑わせたいです、職人として道を極めたいです、家族を守りたいです。

しかしやりたいことというものは必ずしも他人に言えることとは限らない、女の人の足の裏を嗅ぐのが夢だという人もいるだろうし、社会に影響を与えたいと思っていても口に出すのは恥ずかしくて絶対に言えない、という人もいるだろう、だからこの「やりたいこと表明ゲーム」に参加できるのは、自分のやりたいことを社会的に承認される形で納められる限られた人たちだけなのだろう。

それじゃこのゲームに参加できない人は指をくわえているしかないのか、と考えるに、それじゃあ時間がもったいないので別のゲームを始めてみるのもいいのかもしれない。

たとえば、やりたいことをあえて隠して、それを当て合うゲームだってあるんじゃないか。

恋愛がそうである。

お互いのやりたいこと、つまり相手と一緒にいたいという願望が同じかどうかを当て合う、そういうルールのある遊びだ。

あるいはスポーツやテスト勉強は、やりたいことを勝ちたい、生き残りたい、というものに統一してしまって、そのプロセスを競い合う遊びだし、そのあたりがより高度になっていけば文化とか芸術とかになっていくのかもしれない。

そしてブログは、特にやりたいことがなくても、自分の気持ちや考えや日々の記録を他者に発信することができる。

やりたいことがない、ということ自体を書くネタにできるのだ。

そう考えると、ぼくらは思っているよりも色んな方法をすでに手にしていて、社会的に承認されたやりたいことしか言ってはいけない世界から自由になれるだけの力を十分に持っている。

ただ、そういう視点自体を持てるか持てないかにも格差がある、といえばそうなのかもしれない。

しかし、だからこそ世界には本があり、マンガがあり、映画があり、言葉があるんじゃないだろうか。

世界には、やりたいことなんかなくたって、いくらでも生きる喜びを味わう方法があふれていることに気づくために。

それは誰か、同じような悩みにぶつかってきた人から、あなたにあてたメッセージなのである。