アイデアを、邪魔するもの。


年を取ると、頭の中にどんどんショートカットが増えていって、物事を考えるときに、ああそれならこれと関係あるよねとか、その原因はこれだろうとか、予測がつくようになる。



効率化、スピード化が求められる時代において、それはとても重要なことなのかもしれないが、何か面白いことを考えたい、楽しいことを思いつきたい、という場合はこのショートカットが邪魔になるように最近よく感じる。

ショートカットがあるということは、そこは一度ならず何度も通った道なので、その先にある情報は見覚えのあるものばかりで、ワクワクしないのだ。

イデアは異質なものの組み合わせだから別にひとつひとつの情報は知っているものでも、その組み合わせが独創的ならいいんじゃないか、と思うかもしれないが、なかなかそんな簡単にはいかないもので、ついつい使い慣れたネタ同士を短絡的に組み合わせようとしてしまうので、退屈な結果しか得られなかったりする。

ランチに行くときについ仲の良い友達同士ばかりを誘ってしまうようなものだ。

そこで苦手な上司と嫌いな同僚とを誘っておまけに行ったことのない店に向かうような選択は、なかなか起きにくい。

だが、本当に重要なところはそこで、苦手な人や一言もしゃべったことのない人と食事に行ってみないと新しい発見はなかなかないのである。


頭の中のショートカットを捨てる、あるいは一時的に忘れる、というのは意外と難しいことだ。

誰でも過去の経験を参考にしたいし、同じ辛さを繰り返したくないし、周りからアホだとも思われたくない。

また、どれだけ忘れようとしても、そのショートカットはもはや無意識レベルで埋め込まれている場合も多い。

じゃあどうすればいいのか。

知らないことに触れるしかない。

知らない知識、知らない話、知らない人、知らない体験、知らない場所、知らない痛さ、知らない気持ちよさ、知らないバカバカしさ、知らない悲しみ、知らない怒り、知らない喜び、知らない幸せ、そういったものに出会うのだ。

残念ながらそれはグーグルの中には存在しない。

自分で動いて、ムダな時間を使って、ムダなお金を使って、ムダな苦労をして、ムダな遊びをして、ムダな反省をしないと手に入らない。

一般的にはそういうことはアホな人のやることだと思われているかもしれないが、しかしもはや人工知能によって様々な問題解決が進んでいる昨今において、アホなことをやる以外に、人間の価値なんてあるだろうか。

今書いていて思い出した、これも書こうと思って忘れていたのだけど、アイデアを思いつくために大事だと思うことがもうひとつあって、それは思いつくまでのプロセス自体もワクワクしないとダメだということだ。

むしろそっちのほうが大事な気もする。

ああこれは知ってる、これも知ってる、それもわかってる、というような態度ではまったくワクワクしない。

えーなんだこれ!うわー変だぞこれ!ひえーこう来たかこれ!といちいちびっくりしたり興奮しながら考えを進めていくと、頭のどこかの、かしこさを司る部分が麻痺してくる、そうするとショートカットが機能しなくなってきて、色んなことが新鮮に思えてくるのである。

まあこれもアホにならないとできないことである。

周りから頭がいいと思われようとか、あるいは自分のことをかしこいと思おうとしていては、永遠に得られない快感だろう。

そんなわけで、ぼくは自分がアホであることをしっかり肯定したいと思う。

あーぼくはアホや、ほんまにアホや。

(それはそれであざとい感じがするな)

人はいつ、何者かになれるのか。


中学の頃に塾の先生にアイデンティティ、あるいは自己同一性という言葉を教わって、ちょうど君たちはそういうものについて考え始める時期だとかなんとかそういうことを言われたような気がする。



思春期に触れる新しい言葉、面白い考え、知らなかった視点、そういうもののほとんどをぼくは塾の先生たちに教わって、それは授業の内容と密接に関係していた場合もあったし、彼らがちょうど研究していたり、あるいは個人的に関心があることを雑談、脱線として話してくれた場合もあったと思う。

塾の先生の多くは大学生や大学院生で、会計士や弁護士を目指している人や、なにやら難しい研究に取り組んでいる人や、まだまだ遊び足りなくてフラフラしている人や、いろんなお兄さんお姉さんが、それぞれの熱意や打算をもって受験勉強の指導を行うわけであるが、彼らこそそうやってアイデンティティを求めて暗中模索していたのである。

今でも中学生は学習塾での先生の雑談の中でアイデンティティという言葉に出会うのかどうかはわからないし、ひょっとしたら当時の流行のテーマでしかなくて、今はもはやアイデンティティなんていうことはたいした関心事ではないのかもしれない。

それでもいまだに、自分は何者にもなれないとか、何者にもなれなかった自分はとか、そういう言葉を時々見かけると、さてぼくは何者かになれただろうかと自問してしまう。

人生後半戦に入ってみて思うのは、この問題はおそらく生きている限り永遠に続いていくものだろう、ということだ。

運よく、自分が欲しかった、思い通りの自分を手に入れることができたとしても、それを手にし続けることはなかなかできない。

若い頃の感度や運動能力はすぐに低下するし、会社での地位が安全とは限らないし、愛する人との突然の別れは絶対に訪れないとは言い切れない、結局、本当の自分、思い通りの自分、何者かになれた自分、そういうものは手に入れた次の瞬間には失われ、また人は自分が一体誰であるかということについて悩むようになる。

ただ、そこには若い頃とは大きな違いがあって、それはどうせアイデンティティなんてものはまたすぐに失われるものなのだ、ということを知っているかどうかという違いで、それがわかっていれば大きく動揺しなくなって、さて困りましたね、まあ仕方ないので次の自分をぼちぼちと探しはじめましょうかね、という態度を持てるのだろう。

そんな感じでぼくは引き続き年を取っていきたくて、あいつのアイデンティティなんてもうどうでもいいじゃないか、そんな年じゃないだろ、と周りから言われるようになっても、やっぱりみっともなく何者かになろうともがいていきたいなと思っていて、むしろそういうことは卒業したからとかっこつけて無理に現実の厳しさを突然語りだすにわかハードボイルドになろうとするほうが、あとで苦しくなるんじゃないだろうかと思っている。

うじうじ悩むことがダサい、くよくよ後悔することがヘボい、いちいち立ち止まることが歯がゆい、なんとなくそういう空気を感じることがあるし、自分がそっち側にいる場合もあるのだけれども、やっぱりぼくはうじうじ、くよくよ、いちいちダメージを受けながら、何者にもなれない自分を嘆き、しかしあきらめきれずに未練たらしく自分という存在にしがみついていきたいなあと思う。

たしかに現実は厳しいかもしれない。

しかしそれは他の誰かエライ人の現実であって、ぼくにとっての現実は、ぼくの小さな手の中にゆだねられているのである。

コリコリマンの、本当の名。





朝、子どもが図書館に行きたいといったので一緒に自転車で行ったら祝日は休館日だった。



ひどくがっかりしているので、大きい公園まで行ってサイクリングをしようと提案したら不服そうだったが無理やり連れていった。

公園に行くまでのコースがまた上り坂だったのでまた文句を言われながらダラダラと進む。

街路樹が紅葉していて、イチョウの木の下を通ると、ハラハラと黄色い葉を降らしてくれて、とてもきれいだった。

ぼくの自転車の後ろに乗っている下の子はきれい、きれいと声を上げている。

池の周りをぐるっと走って公園の中に入っていくと、大きな滑り台やらなにやらの遊具が見えてきて、それで遊びたいという声も聞こえるが、ぼくはそんな気分ではないのでそのまま通り過ぎて、木がたくさん生えている人気の少ない遊歩道へと向かい、小さな橋を渡り、ちょろちょろと水が流れているあたりにいる大きな水鳥を見つけたので自転車を止めてみんなで観察した。

なかなか近づいても逃げないので面白くなって、下の子にもっと近づくようにけしかけたら、水鳥はめんどくさそうに大きな翼をゆっくりと動かして飛び立った。

飛び立ったものの、またすぐ近くに降りてきたのを今度は上の子が走っていってちょっかいを出して、また鳥はため息でも聞こえてきそうにめんどくさそうな動きで羽ばたいていく。

そのうちおなかがすいたと言い出したので、帰り道は違うコースを通って、大きな上り坂を自転車を降りて押していくと、なんでこんな坂を行かないといけないのか、もっと楽な道が他にあるねん、ぼくは知ってるんやと上の子が主張するから、歴史しりとりをしようと言って気をそらした。

坂を上りきると、大きな松の木たちに囲まれたうすぐらい道があって、ここはとても長い下り坂だ。

ヒュー!と叫びながら降りていくとどんどんスピードが出てきて、周りの景色がかすみ、自分の目の前の道だけがはっきり見えていて、松の木はどんどん減っていって、広い空の下に出てきて、それでも自転車のスピードは止まらないからゆっくりブレーキをかけていく。

上の子がもう一回やりたい、というのを、いやいやおなかすいてるんでしょと制して帰路についた。

食事のあと子どもたちは家で録画している『もののけ姫』を見たが、ぼくは昼寝をした。

下の子は『もののけ姫』に出てくる小さな木の精霊のことをコリコリマンと呼んでいて、今回もコリコリマン、コリコリマン、といって騒いでいたが、夜寝る前に、実はコリコリマンには本当は木霊という名前があると知っている旨を本人から伝えられた。