ランダムな、模様。


たまたま立ち寄った喫茶店のトイレに座って大理石風の壁紙を見つめていると、本物の大理石の画像データを取り込んで作っているのだろうか、模様がランダムに配置されているので、じっと見つめていると子供が別の子供に口づけしているように見えたり、あるいは何か思索にふけっている男性の顔に見えたり、あるいは空に飛び立っていく鳥のように見えたりしてきて、なかなか味わい深かった。

子供の頃に、天井や壁にあるわずかな凹凸や木目模様を見て、そこに顔やら怪物やら、何かの物語を見出そうとよくしていたのを思い出す。

それで、ああこういうことで十分なんだと思った。

ぼくらは毎日無数の物語を押しつけたり、押しつけられたりしている。

ここにこんなお得な情報があります、こんな風に使うとこんなメリットがあって、それを他のものと比べるとこんなに違うのです、今すぐこれを取り入れるべきです、そうしなければひどい目にあいます、というワンパターンの物語ばかりを繰り返している。

人間は、本当は、石の模様をコピーした壁の模様や、天井の凸凹を見るだけでも、自分なりの物語を見つけてしまう生き物なのに、なぜこんな退屈な物語ばかりがあふれているのかといえば、みんなが結果を急いでいるからである。

今年度中に目標を達成しないと、今月中に案件を受注しないと、今日中に商品を売り切らないと、今この瞬間に話を聞いてもらわないと困るからである。

忙しい人が語る物語はすべてが急いでいて、いますぐ結果を求めていて、ひどくイライラとしていて、一様に同じ筋書きだ。

じゃあ時間に余裕がたっぷりとあって、心にもゆとりがしっかりとある人だけが、自分だけの物語を見つけることができるのかといえば、そういうわけでもない。

他人が描く物語に口を出す。

俺ならこうはしない、私ならそんなバカなことはやらない、と口を出すだけ出して、自分の物語には手をつけない。

変わり果ててしまった世の中、老いた自分、失われていく自信、そういった絶好の題材があるのに、なぜか他人の物語にばかり手を入れたがる。



じゃあどうすれば自分だけの物語を描くことができるのか。

そんなことは知らない。

知る由もない。

だけど、少なくともぼくは、自分が忙しかったり、退屈していたり、弱っていたり、年を取っていたりしていることから目をそらさないようにしたいと思う。

かっこ悪いこと、情けないこと、ズルいこと、いやらしいこと、逃げたいこと、隠したいこと、そういう類のものがちゃんと含まれていないと物語にはならない。

悪者が一人も出てこなくて全員が英雄ばかりのストーリーなんて、誰も読みたくないのだ。



そしてそういうものというのは意識したって生まれやしない。

自然の中でたまたまできてしまった模様のように、意図していないところで勝手にできてしまう、予定外の産物でしかないからだ。

予定外のことを認め、予定外のことを受け入れ、予定外のことを愛することからしか、独創というものは生まれない。



まあぼくが勝手にそう思っていることだけれども。

しばらく、呪いをかけられていました。

今週のお題「私がブログを書きたくなるとき」





ここのところずっとブログを書くことが減っていて、理由は簡単で「書くことを惜しんでいた」のである。



ある知人が、ぼくに呪いをかけた。

長い文章を書く用事がある時は、ブログを書かないほうがいい、というわけのわからない呪いである。

今考えれば、彼が書いた文章を読んだこともないし、ぼくのように職業として文章を書いていた経験もない人間の言葉をなぜ信じてしまったのかよくわからないが、しかしまあそういう呪いは普段はなんともないのだが、いざ自分が追いつめられたときに、じんわりと心の暗い部分に滲みはじめてくるのである。


最近は、とにかく仕事が忙しくて、それに加えていくつか文章を書いていて、しかしあまりうまく進んでいなくて、ああイライラするなあ、ブログ書きたいなあという衝動には何度も駆られていた。

そこで、例の呪いが発動するのである。

長い文章を書く用事がある時は、ブログを書かないほうがいい、と。

たしかに、ここでブログを書いてスッキリしてしまうと、書きたい欲求が解消されてしまって、また書き物が進まなくなるのではないか、と不安になってくる。

それで、なるべくブログを書かないように、書かないようにと注意していた。

それでも、どうしても我慢できずに電車の中で書きはじめてしまうことが何度もあり、その書き出しの死骸が下書きフォルダにいっぱい眠っているのである。



さて、言い訳はここまでである。

結局、ぼくは逃げていただけだ。

ここでブログを書いてしまうと自分の文章力が弱まってしまうとか、書く時間がなくなってしまうとか、書きたい気持ちがなくなってしまうとか、そう思うことで、書くことに自信を失いそうになるのを止めたかっただけだ。

本当に書くことが好きなら、用事で書こうが、ブログで書こうが、何で書こうが書き足りない、それぐらい執着していてよいのだ。

書きたいことならいくらでもある。

子育てと仕事の両立のこととか。

働き方改革がどうのこうのとかいうけどそれって外野から言われて変えるってどうなのとか。

結局ワークライフバランスを崩して攻めている人のほうが成功している人多いってどうなのとか。

インターネットで文句ばかり言っている人って現実でなんらかの解決策を講じてるのかしらとか。

映画やマンガって人がすぐ死ぬけどそんなに人って人が死ぬのを見たいのかしらとか。

大阪や関西についてのことをもっと考えてみたいなとか。

こんなにグローバル競争がひどくなっているのに日本語にこだわるのってどうなのとか。

おまけにぼくなんて英語どころから大阪弁しかしゃべれないんだけどとか。

SDGsとかいうけど課題解決の視点だけじゃ人なんて動かないんじゃないのとか。

もっと人間の欲望とか執着とかドロドロしたやつをまっすぐに見つめていきたいなあとか。

そういや最近のはてなブログってどうよとか。

そしてブログとは、ブログってさ、ブログなんてさ、というブログ談義とか。



ぼくがブログを書きたくなるのはどういうときかといえば、はっきりいって、だいたいいつだって何か書きたいのである。

書きたいくせに、いや今はそういうタイミングじゃないからとか、他にやるべきことがあるからとか、そうやって言い訳しながら暮らしている。

だけど、もうそういうのはやめよう。

理屈ではなく、ぼくはただ何かを書き続けてやろう。

親の仇か何かのように、これでもか、これでもかと書き続けてやろうと思う。




呪いを打ち破ることができるのは、それをはるかに超える強烈な怨念だからである。




以上は、id:fujiponさんのこの記事を読んで。

それでも、僕なりにブログを書くことによって、人生少しマシになったような気はしています。 どこに引っ越しても、転勤・転職しても、ブログはいつも、ここにある。

「どんなときにブログを書きたくなるのか?」という問いに対して、僕がたどり着いた答え - いつか電池がきれるまで

うれしかったこと、救われたこと。




さまざまなおもしろい業界に関わることがあり、そこにいる人たちに影響を受けて考えが変わることが多い。



そうしないと生きていけないから仕方なく染まる、という面も大きいと思う。

その場その場に影響を受けながら変わっていくのが人間なのかもしれない。

だが、そんな中で、特別うれしかったことや、救いとなった経験というのが、それなりに年齢を重ねた人なら、誰でもひとつはあるのじゃないだろうか。

小さい頃に人形に服を作って着せているのをほめられたのがうれしくてデザイナーになった人がいる。

職を失って公園でぼんやりとしていたときに政治家の演説を聞いて政治の世界に踏み出した人がいる。

孤独の中、文章を書くことで自分の言葉を取り戻し、小説家になった人がいる。

そんな極端な話ではなくても、何かちょっとしたきっかけが、ぼくらのちょっとした一歩、しかしこれまでの自分だったら選ばなかったような新しい一歩を後押しして、そうやって人生は作られていく。

人生というのは、そんな良い話ばかりじゃないと言う人もいるだろう。

常に現実を見て、状況を冷静に把握し、優先順位をつけて、感情に振り回されずに的確に行動するべきだと言う人もいるだろう。

いっときの興奮などで人生をめちゃめちゃにせず、堅実に生きるべきだと言う人もいるだろう。

しかし忘れちゃいけない、そう言う人たちの誰もが人間であり、非合理で不明瞭な決断を下していることがあるのだということを。

ぼくらは機械ではなく、不安定で未完成な感情を持った生き物なのだ。

だからぼくはもっと自分の声をちゃんと聞かなきゃと思う。

勇気を出してやってみたら、思わぬ人からほめられて、うれしかったこと。

地獄のような日々の中で、一筋の光に出会って救われたこと。

そこで感じたことが、ぼくの今とこれからを作っている。

そうやってぼくが踏み出した一歩は、いつかまた誰かの一歩につながるだろう。

理想になれなくても、肥やしになればいい。

そうやって、ぼくがうれしかったこと、救われたことが、ぼくの手から離れ、誰かの力になる日まで。

ぼくは自分の夢にいつまでも、みっともないほど執着していよう。

いつかやってくる、その終わりの日まで。