決める訓練は、必要だと思う。



他人に判断を押し付けるのは、楽だ。



若い頃から、AとB、そしてできればCも用意して、それを相手に決めてもらえ、という訓練ばかりを受けてきて、それ自体はプレゼンテーションの技術向上に役立ったり、できるだけたくさんの切り口からアイデアを考える良い経験になったのだけれど、しかしぼくはそのせいで、とても大事なことの訓練をやらずに年を取ってしまった。

それは、決める、という訓練だ。

まあ正確に言うと大量にあるアイデアの中からAとBとCとにしぼる、という判断はたくさんしてきた。

してきたけれども、その中でよしこれで行こう!と一つだけを決める、つまりは何を捨てて、何を残して、その方向に一歩を踏み出す、という経験というのが圧倒的に足りないあと思う。

サラリーマンは本当に気楽な稼業だと思ってて、それはおおむね良い意味なんだが、しかしまずいなと思うのは、ぼーっとしていても誰かが決めてくれるところだ。

お客さんにはAとBとCがありますが、どっちがいいですか?と言えば、どれかを決めてくれるか、あるいはどれも決めてもらえないか、いずれにしたって答えをもらえるし、上司にもAとBとCの道があるんですけど、さてどうしたものでしょうと相談すれば、Aに行けとかBに行けとか、あるいはお前オレの話聞いてたのか、Dって言ってただろうと怒られるだけで、やはり自分以外の場所に答えが用意されている。

逆に、勝手に決めること、勝手に判断することは、組織の中では程度によるけれども重罪として扱われるような気がする。

それは組織にとってはしかたがないことで、構成員が各自の勝手な判断で重要な意思決定をしてしまえば大混乱が起こるのは避けられないからだ。

でも、だからといってお互いに、他人に判断を押し付けることばかり繰り返していると、何も自分で決めることができなくなってしまう。

こういう状態に対して、組織がどう対応するべきかはまた別の機会に話すとして、問題はぼくら自身のことだ。

どうやったら、物事を自分で決める力をつけることができるのだろう。


ひとつは、自分以外の人のことについても決める機会を持つことだと思う。

人は自分だけのことなら割と簡単に決めることができる。

その結果失敗しても、自分だけが痛手を受けるだけだからだ。

本当に判断するのが難しいのは、他人と一緒にいるときに、その人の運命も背負った上で、何かを決めるときだ。

お互いに失敗した場合の痛手を引き受けられるか、相手は自分の選択に納得してくれるか、そして最終的にはその決定に自分が責任を持てるか。

こういうしんどい経験をできるだけたくさんやっていくことが、ぼくにはもっと必要だなあと思う。


もちろんそんな経験ばかりをあまりにも繰り返していたら命がいくらあっても足りない。

たまには他人に判断してもらえたほうが楽だ。

だけど、その場合は、自分の命をその人に預けているのだ、というのは認識しておきたい。

そして、それをお互いに分かったうえで、同じ選択をするということの難しさと面白さを噛みしめて生きたいなあと最近は思う。