東京出張した時に中途半端に時間が余り、美術館に行くには無理があるし、人に会うには急すぎるし、さてどうしようかと思って、家族に買って帰るお土産をちょっとじっくり選ぶことにして、いいものを買うことができてとても満足した。
東京に行くとあれもしとかなくちゃこれも見とかなくちゃと、妙に落ち着かない気持ちになる。
しかしぼくはそういうやりくりがとても苦手なので、そんなにうまく用事をこなせない。
結局何もできずにがっかりすることと比べたら、家族のお土産をじっくり吟味するのはなかなか良い時間の使い方だと感じる。
若い頃はどこか遠いところに行くときは、そのどこか遠いところこそが目的地だったけど、いつのまにか、遠くへ行って、戻ってくるところが目的地になっている気がする。
家を出るときや保育園を出るときは、いってきます、と言う。
いってきます、はたいていの場合、ただいま、と対になっているから、やっぱり戻ってくるところまでを織り込んでいる。
もちろん人生というのは、いった先で終わってしまったりもするが、まあ本人が戻る気があったなら、そのプロセス自体は進行中だったわけだ。
それから、誰かがいって、戻ってくるという構造の中には、その人を待っている存在が必要で、別にそれはネコでも飲みかけのワインでもなんでもいいのだが、ぼくは少し前に長めの休暇を取って、毎日家事をしながら妻が仕事から帰ってくるのを待つ、という生活をしていたことがある。
あの時に気づいたが、待っている側というのは、相手がいつ戻ってくるのだろうということに非常に敏感になるのだ。
それはいいタイミングで出来たての料理を食べてほしい、というちゃんとした理由もあれば、もう少しダラダラしていたいからまだ帰ってこなくていい、というやましい動機の場合もある。
しかしいずれにせよ待っている側は、ちゃんと待っているのだ。
戻ってくるために行く人と、それを待つ人。
なんとなく、この組み合わせが家族の最小単位のような気もする。
これは職場でも、ただいまとかおかえりなさいとか声をかけあうところにいたことがあるが、やっぱりそのことがコミュニティを形成する要素だと考えられてるように思う。
まあ、生きていれば、戻るつもりでいったっきり、そこから路線変更して違うところにいったり戻ったりする場合もあるだろう。
けれど、お盆には死者が戻ってくるのと同じように、やはり人間の魂みたいなものは、いったり戻ったりを繰り返したがるものなのだろう。
そう考えると人生というのは単純な一方通行ではない。
むしろ、いってきますとただいまのあいだにこそ真実が隠されている。