みんなが孤独な世界は、それほど不幸な世界ではない。

 

 

 

 

クリスマスの季節が近づくと、いまだに孤独な気持ちになる。

 

 

 

やわらかく、あたたかそうな服を着て、お互いにニコニコしあっている人々がたくさん目に入るからだ。

 

自分に恋人がいようと家族がいようと、ひとりぼっちでいる時にそういう光景を見るのはまったく気分の良いものではない。

 

いま自分がとても孤独であることがひどく強調される。

 

クリスマスは孤独な人間を、孤独であるという理由で糾弾し、幸福な人々を目の前で見せつけるという方法で罰する。

 

ひどい暴力である。

 

人が自分のことを孤独で辛いと感じるのは、周りにそうではない人間がいるときだ。

 

もしたくさんの人の中でひとりぼっちでいたとしても、他の人たちもひとりぼっちであれば、たいして苦痛だとは思わない。

 

満員の通勤電車の中では、ほとんどの人はひとりぼっちである。

 

牛丼屋とか公衆便所とか本屋とかも近いように思う。

 

そういう場所では、ぼくは安心して自分の孤独を味わうことができる。

 

孤独な時間は、1つのことへの深い考察や、反対に色んなことへの広い想像をもたらしてくれる。

 

どこまで続いているのかわからない暗い洞窟をあてもなくさまよっていたって、危険だとか腹が減ったとか、誰にも文句は言われない。

 

あっちの世界からこっちの世界へと気まぐれに飛び回って思いつきで行動していたって、計画性がないとか他人への思いやりがないとか、つまらないことも言われない。

 

そして、もし誰もがこのような孤独な時間を楽しみ、愛していたら、自分だけがひとりぼっちで不幸な人間なのだという辛い気持ちになることもないように思う。

 

ぼくは人間が好きだ。

 

違う考えをもった人間同士が、異質なものを組み合わせて新しいアイデアを生み出す作業が大好きだ。

 

しかし、その異質なものの大部分は、その人が孤独な時間の中でじっくりと育ててきた、とても個人的で、とてもかっこわるくて、とてもあやしくて、とても不完全なものだ。

 

ぼくはいつまでもかっこわるくて、あやしくて、不完全な人間であり続けたい。

 

孤独な時間をじっくりと楽しみ、どう扱っていいかよくわからないような異物を持ち帰ってみたい。

 

そして、孤独な人間同士で収穫物を見せ合って、物々交換して、おしゃべりして、ひとしきり楽しんだら、またひとりぼっちで、真っ暗な孤独の闇の中に沈んでいきたい。