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犬だって言いたいことがあるのだ。

ものごとをひとつ先に進めるヒントについて考えています

もう一人の自分の、みつけかた。



ブログにおける人格について、ちょっと考えていた。

世の中の多くの出来事に対して、
人は一貫性を求められる。

それがこの世の不幸のはじまりであって、
人間というのは色んな面があったり、
常に考えが変化していくのが当たり前なんだから、
「そうじゃない自分」も認めてあげようよ、
というのが、分人、という言葉として
ちょっと前に提案されていた。

しかし、そんな冷静な感じで考えていても、
「そうじゃない自分」は出てきてくれないだろう。

ズイショさんの長い長いエントリ
悪い芝居「春よ行くな」を観劇してきました。 - ←ズイショ→

の最後のほうで、氏の場合は、
バカボンのおまわりさんがピストルをいつも撃ちまくるように
言いたいことを発信し続けるという、
連続的な行為そのものが自分なのかも、というようなことを書いていて、
行為によって人格が見えてくるというあたりが
僕はひどく気になった。



たぶん、そうなんだと思う。


自分とはなんぞや、そして、「そうじゃない自分」とはなんぞや、
とじっと考えていても答えは出ない。


答えはすでに、今の行動として現れているのだ。


特に「そうじゃない自分」を探す時は、
「自分はこんなふうになりたい」「あの人のようになりたい」と
願っていても無駄だ。

「そうじゃない自分」というのは、
そんな風に言葉で定義できるような明確な存在ではないからだ。

それは「明確な自分」「一貫性を求められている自分」とは違う、
新たな可能性を内在させた、混沌とした存在なのだ。

僕には一つ一つの可能性に名前を与える
なんて恐ろしいことは到底できない。



だから、僕はブログにおける自分について、
あまり考えないようにしようと思う。


なぜ、僕はブログの中で敢えて今のような語り口を選んでるのか、

なぜ、妙に上から目線なのか、

なぜ、犬なのか、

そういうことについて考えていても、
何も答えは永遠に出ない。

実際の自分の行動の軌跡から、なんとなく
その輪郭が見えてくるだけである。


まあ、ことブログについては、たいして難しい話ではない。

書く、という行為を続ければ良いだけだからである。