もう、デザインとか、やめませんか?

はてなブックマークのことについて


最近、はてなブックマークのデザイン変更について
色々と議論があるけれど、僕が思ったのは
そんな表面的な変化だけで、賢明な「はてなー」たちが
躍起になるなんて、本当にはてブってすごい存在なんだなあ、とか
新規ユーザーとかメディアとかいう言葉には敏感に反応するんだなあ、とか
そういうことだった。

僕ははてなに住んでいる人々のことが大好きなので
辛辣な意見や怒りのコメントも、はてなのことが好きだからこそ
出てくる愛情表現そのものなんだろうと思うし
やっぱり、自分の周りに起こった物事を
ちゃんと自分で考える人たちの集まりなんだなあと実感する。
(というか昔からこういうことは定期イベント的にあるらしい)

ただ今回のことで、僕はあらためてメディアとか広告とかデザインとか
いまや当たり前に使われている概念について、あらためて考えた。

そして思うのは、僕らはもはや、そういう古臭い概念自体に
とらわれてはいけない、ということである。



*デザインはもう死んでいる


このあいだ、広告業界に関心を持つ数人の学生に
「あなたにとってデザインって何?」という質問をする機会があった。

美大系の学生はみんな簡単に答えた。

「は?ファインアートじゃないってことでしょ?」

他の学生はさらにシャープに答えた。

「え?それを使って世の中の色んな課題を解決すること、じゃないんですか?」


最近の学生は本当によく勉強しているなあと思った。

なるほど、ファインアートじゃなくて
世の中の色んな課題を解決できるものがデザイン。

お見事。


だけど僕はとても意地悪なので、こんな質問をした。

「じゃ、ファインアートじゃなくて世の中の課題を解決できる仕事なら
何でも興味があるってことだね?救急隊員とか、介護職とか、政治家とか、
そういうことにも、もちろん関心があるということだよね?」

するとみんな憤慨して、それは僕の勉強してきたことじゃないからとか
資格を持ってないからとか、自分の得意なことは別にあるからとか言う。

でもそんな答えじゃ僕は満足できなかった。

僕は言った。

「みんな、もっと素直になったらいいのに。
好きなんでしょ、何かを表現することが?
自分の感じたことを形にしたり、伝えたりする、
っていうことにワクワクするんでしょ?」

ある学生は僕の顔を見て何度もうなずいてみせたし
別の子は不快感をあらわにしていた。
お前みたいなヤツに上から言われたくない、って思ってるのかもしれない。

だけど僕ははっきりしておきたかった。

デザイン、なんて言葉は、言葉でしかないのだ。
コミュニケーションデザイン、とか、ソーシャルデザイン、とか
色んな造語を大人たちは考えるが、そんなものに実体はない。

言葉は発された瞬間に死んでいる。
それは過去の記録でしかなく、後から来た人々に
何かの情報の一部を伝えるための圧縮データでしかない。

実際に存在するのは、行為だけだ。

この先は行き止まりだと伝えようとしたり、
好きな人に気持ちを告白しようとしたり、
怒っている人をなだめようとしたりする、
そういう行為自体を見つめることが大切なのである。

それを、なんちゃらデザインなんていう
わかったようなわからんような言葉で
適当に処理するのは本当にもったいないことなのだ。


*もっと、生きることを、見つめませんか?


僕がここまでデザインという言葉を目の敵にするのは理由がある。

要は、デザインとか、メディアとか、広告とかいう言葉は
「大量の人間をざざーっと集めたり、情報をぶわ~っとばらまくこと」
が当たり前だった時代に使われていた言葉なのである。

いまだにネオヒルズ族とかが、情報の非対称性を利用して
大量の人間から少しずつお金を回収して大儲けする、
みたいなことをやっているみたいだが、
僕に言わせればそれこそが「デザイン」である。

もちろんこれから大量消費、大衆社会が発展していく国もあるだろうし
お金を大儲けしたい人たちはそういう国に行けばよろしい。

しかし、少なくともこの国では、もうそういうのは要らないんじゃないか。

どうせこの世の中、さらに機械化とネットワーク化が進んでいく。
人間がやらなければいけないことは、どんどん減っていくだろう。

それを「機械に仕事が奪われる!」と恐れるのではなく
人間にしかできないこととは何か、について考えられる、素晴らしいチャンスと思えばいい。

そしてその時、必ず僕らは「生きる」ということの意味に直面する。

人間1人1人の命の重みについても、もっと考えるようになる。

1人1人がどんな人生を送り、何を悲しいと思い、何を幸せと感じるか、
そういうことについて、もっと意識が集まっていくだろう。

そして、各自が、それぞれの幸せな人生を暮らすために
知恵を寄せ合って、助け合うことが、当たり前の世界になるだろう。

そうなった時に、いまだに
「これからはライフデザインだ!いや、ハッピネスデザインだ!」とか
騒いでいるようでは、情けないじゃないか。


人間の幸せというものは、「デザイン」するものではない。

それは、限りのある命を生きる、という行為そのものを
愛しく思うところから始まるのだ。