中年になる方法は、検索しても見つからない。

 

 

 

江國香織さんの『なかなか暮れない夏の夕暮れ』という50代の男女たちが出てくるすてきな小説を読んで、中年にとって大事なものはなんだろう、とあらためて考えて、それで、そういうことをいちいち考える必要のないのが中年かもしれない、と思った。

 

江國さんの物語に出てくる中年たちはバブル期に青春をすごした人たちなのでちょっとぼくとは時代背景が違うかもしれないが、あまりそこは関係なくて、みんな何かに悩んでいたり、孤独を抱えていたりして、だけどそういった現実に無理に抗おうとするわけでもなく、昨日の延長線にある今日を楽しもうとしている。

 

思春期もそうだが、いわゆる中年の危機においては、自分はどう生きるべき、どうあるべき、という、べきの壁に向き合う時期は必要で、それにぶつからなきゃ自分を変えるパワーは生まれない。

 

ところが壁を越えてしまうと、どう生きるべき、なんてふっとどこかに行ってしまって、今日は何を食べたいか、誰に会いたいか、どんな本を読みたいか、というような小さな関心に導かれながら暮らし、その総体としての自分にそれなりに満足して生きられるような気がする。 

 

世の中には、そういうことに気づかせてくれるヒントが少ない。

 

もし周りに、あんな年の取り方をしたいなあという人がいたら、それはすごくラッキーで、大抵はああいう年の取り方はしたくないなと思うことばかりだ。

 

あるいは、自分には全然手の届かないような人や、自分とは全く違う強みを持った人を模範にしてしまって、いくら努力してもそこにたどり着けないことにがっかりしてしまう。

 

若い人ならそれでもなんとか理想に近づけるかもしれないが、ぼくら中年にはなかなか厳しい話だ。

 

 

じゃあどうすれば自分なりの年の取り方を見つけられるのかと言えば、そんなものがわかってたら苦労しないわけだが、ぼくが思うのは、もう一度、好き、に立ち返ることだ。

 

その好きはコピーライティングとかじゃなくて、もっと幼稚な好きでよくて、ぼくなら、人と一対一でおしゃべりするとか、ぼーっと妄想するとか、その妄想を絵にしたり言葉にしたりするとか、そういうことだ。

 

そして、考える。

 

はたして最近は、そんな幼稚な好きをちゃんと満たしているだろうか、と考える。

 

それで、うん充分に満たせているなと思える人はそのまま年を取っていけばいいが、そうでない場合は、今の生活の中に、幼稚な好きをうまく埋め込んでいけないかと考えてみる。

 

久しぶりに旧友と会っておしゃべりする機会を作るとか、半休取ってひたすらぼうっと妄想するとか、もう数十年ぶりに絵でも描いてみるかとか、そんな非生産的で無駄な時間を作ってみる。

 

そのうち、ふと気づくのである。

 

ああ、自分はもう充分にがんばってきたなあと。

 

昔はこういう非生産的なことをして暮らしていたのに、ちゃんと大人になって、生産的なことをちゃんとやろうとして、ああでもないこうでもないと迷いながら歩いて、ボロボロになって、年を取って、すっかり中年になったんだなあと、気づくわけである。

 

大事なのはここまでである。

 

 

それじゃなんの解決にもならないじゃないかと思われる諸兄姉もおられるかもしれないが、ぼくらが生きるこの社会は常に生産性とか効率化とか成長とか努力とか根性とかを求めるし、ぼくらはなんとかしてこういうことに応えようと生きてきたわけだが、中年に差しかかって、能力も落ち、成長率も鈍化し、変化に対応できなくなってくる自分を認められずに苦しんでいる、そういう自分に気づくことが大事なのだと思う。

 

これまでよくがんばってきたじゃないか、えらいぞと、カチカチに表面が固くなって分厚くて、しかしいたることろ傷だらけの大人の皮をかぶり、中でブルブル震えている自分をほめてやろう。

 

もうこれ以上無理をすることはない。

 

なぜなら、もうとっくに、ぼくらはたくさんのものを手に入れることができているからである。

 

やりたいことを泣く泣く手放して心を殺して取り組んできた仕事の中で手に入れたタフさ、誰も手を差し伸べてくれない場所で一人でじっと孤独と向き合って身につけた自分で考える態度、大嫌いなやつに頭を下げ続けて気がついた本当に大事にしたいもの。

 

世間はもっと金を稼げとか成長しろとか偉くなれとか貢献しろとか言ってくるかもしれないが、ぼくらの手元には十分な宝物があるのだ。

 

 

さてこの先は、ぼくら次第である。

 

なんだ、もう十分にがんばってきたのだから、ここからはもっと自由にやっていこうと、新しい道を進む人もいるだろうし、どうせ残りの人生はボーナスゲームなのだから今のゲームを行けるところまで行ってやろうと思う人もいるだろうし、なんにせよちょっとペースを落としてゆっくりしようという人もいるだろう。

 

これが合っているかなんてわからない。

 

いずれにしたって、ぼくらが年を取る方法なんて、誰も教えてくれないのだ。

 

ただ、わかっているのは、正解を求めていたって一生見つからない、ということだ。

 

 

 

正解というのは、人から与えてもらうものではなくて、自分で作るものなのだ。

 

 

なかなか暮れない夏の夕暮れ

なかなか暮れない夏の夕暮れ

 

 

喫茶店に一人でいる人間は、まともじゃない。





ぼくの父は、昔はタバコを吸っていて、そのせいなのかそのせいでないのかはよくわからないが、喫茶店にばかり行っていたような気がする。



子どもの頃、梅田の喫茶店に連れて行ってもらい、エクレアといういかにもうまそうな食べ物がショーケースに陳列されていたので、それを注文したところ、店のおばちゃんが冷蔵庫から透明のビニール袋に入った、シュークリームのミイラみたいなのを出してきて、手で袋を開けて皿に置いたのを見て、ひどくがっかりしたのを覚えている。

当時の広告業界はひどくいい加減で、クリエイティブディレクターはいつもデスクにおらず、いきつけの喫茶店に直接電話して呼び出したりしていたという話も聞く。

父もそういう環境の中で仕事していたのだろう、どっちにしたってまともな感覚じゃあない。

それで、もれなくぼくにもまともじゃない感覚は受け継がれていて、まあ別に喫茶店に行かなくても仕事はできるが、ちゃんとした姿勢で何かをやる、というのができない。

いつも貧乏ゆすりをしているし、無駄口を叩きながらじゃないと調子が出ないし、そのくせ自分が集中しはじめると誰とも口を聞きたくなくなる。

ぼくは一度も転職したことがないのをちょっとうしろめたく思ってたりするのだが、しかし今さらまともな職場で働けるイメージもない。

振り返ってみるに、基本的にぼくは昔から生活態度が悪い。

規則正しく暮らすことが苦手で、試験も一夜漬け、面白い本を読み出すと朝まで読んでいて、学生の頃は昼はずっと寝ていたりした。

そんな態度で生きてる人間でもなんとかまともに働けるようにスイッチを入れてくれるのが一杯のコーヒーであり、それを誰にも邪魔されずにゆっくり飲める場所が喫茶店なのである。

だから喫茶店で一人でぼうっとしている人間なんてのはだいたいまともな人間じゃなくて、ちゃんとした人はいつだって規則正しく暮らし、無駄な時間を使わず、やるべきことを終わらせて、あとはしっかりと楽しみ、充実した毎日を送っている。


茶店は好きだが、仕事中にわざわざ昼飯を食べに行くのが最近はあまり好きではない。

行ったり来たりする時間がもったいないし、会社の人とばかり食事をするのも飽きたし、コンビニで食べたいものだけ選んで自分の食べたいときに食べる、というのも悪くないなと思いはじめた。

外食すると、ラーメンとカレーはなかなか同時に食べれないが、コンビニなら簡単だし、栄養バランスがどうとかうるさいことも言われないし、言われないのに他人の目を気にして妙な注文内容になったりせずにすむ。

自分はまともな人間じゃないくせに、なんとかまともなフリをしなきゃいけないと思っていて、そういうのに飽きてきたんだろう。


ただまあ突っ張っているわけではなくて、まともじゃないからこそできることは意外とこの世界には色々あって、むしろまともじゃない部分を、世の中にちょっとでも役立つようにするかがミソで、そのときだけはちゃんと目覚めた状態でいなきゃいけない。

そのためには、錆びかけた活動スイッチを入れ直す儀式が必要で、その降霊の儀を執り行う場所が喫茶店なのだろう。


どっちにしたってまともな人間のやることではない。

データを捨てよう街に出よう

 

 

 

人と話していて気づいたのだけれど、いくらネットに転がってる誰かの文章を読んでわかった気になったり、データを渡されて何かを知った気になっても、それでうまく事が運んだ経験があまりない。

 

 

 

その場に行って自分の目で確かめたり、人と直接会って聞いたり、実際に試してみたりしないと、いいアイデアはなかなか思いつかない。

 

それは一体なぜなのかと考えるに、ぼくは、ぼく以外の誰かからどれだけ大事な情報を提供されても、それを自分自身で見つけた!と思えなければ、ワクワクしないからだと思う。

 

イデア探しは冒険だ。

 

目的地がどこかもわからず、わかったとしても無事にたどり着けるかわからず、仮に何かを手に入れたとしても、無事に帰って来れるかわからない大冒険だ。

 

あらかじめ目的地がわかっていて、そこにたどり着けるのが当たり前、というような行程を、はたして冒険と呼ぶことができるだろうか。

 

多くの人たちが踏みしめてすっかり歩きやすくなった道を、ただ安全に歩き、みんながこぞってありがたそうに受け取りにいくデータというただの文字列を、自分も同じようにうやうやしくいただいて、何かしたような気になって帰ってくる、そんな道中に何か新しいものは見つかるだろうか。

 

あるいは、大冒険の末に素晴らしいアイデアを手に入れたとしても、なんだそんなのはデータの通りじゃないか、と言われてガッカリすることもあるだろう。

 

しかし、本当は落胆する必要なんてなくて、苦労して手に入れたそのアイデアは、やっぱり大事な宝物なのだ。

 

なぜなら、それが物事を決めるときに一番大事な、意志となるからだ。

 

データが指し示すのは現在の自分の位置でしかない。

 

自分がどこに向かえばいいかは、自分で決めるしかないのだ。

 

見つけたアイデアにこだわり、吟味し、そこからまた歩いていくしかないのだ。

 

そんな孤独な旅を続けてまで、手に入れたいものなんてあるだろうか、とはよく思う。

 

だけど、ぼくは見たい、自分の足で歩いていった先に、誰も見たことのない、なんとも素晴らしい光景を。

 

そのために生きてきた、と思えるような美しい大地が広がっているのを。

 

 

さあ今すぐ、データを捨てて、冒険をはじめよう。