やりたいことは、なぜ進まないのか。


理由はわからない。



やりたくない宿題とか無理矢理やらされてる仕事とかに限らず、自分のやりたいことだったはずのことも、なぜか順調に進まないことが多く、不思議に思う。

その時間が足りないのかと言われたら、この数年慢性的な時間不足なんだけれども、まったく時間がないわけではなく、わずかな空き時間ぐらいはある。

そのすき間にやればいいのに、実際は別にそこまでやりたくもないファイヤーエムブレムをしたり、家族が見ているテレビ番組をつい横で見てしまったり、職場での立ち話に費やしてしまったりする。

さあやるぞ、と始める前のちょっとした息抜きのつもりなんだが、むしろその息抜きばかりしている。

これは一体どういうことなんだろなと思うに、どうも「やりたいこと」というのがいつの間にか「やらなければいけないこと」に変質していて、やりたくないけどやらざるをえない義務と同一視している気がする。

おまけに義務のほうは自分だけではなく他人や締め切りや法律が見張っているからやらざるをえないが、「やりたいこと」にはそういうものがなかったりする。

なので恐ろしいことに自分の中での優先順位が一番最後になってしまう、これは本当に恐ろしい、恐ろしいことである。

じゃあいつ「やりたいこと」が義務へと変わっていってしまうのかと考えるに、実はまあまあはじめのあたり、そのことを「やりたいこと」だと自分で認識した時点のような気がする。

これは自分が「やりたいこと」だ、さあやろう、この瞬間に「やりたいこと」は単なる義務に成り下がっている。

本当に「やりたいこと」というのは、さあやろう、なんてわざわざ思わなくても勝手にはじめているものだ。

むしろ勝手にやってしまっていて、やらなければいけないことを後回しにしてしまっていて、ちょっと困ってたりする。

そういう野生の欲望をぼくはなんとか社会化しようとする。

で、なんとなく飼い慣らしやすそうな、言うことを聞かせやすそうなやつを捕まえて、それにこう命令する。

今日からお前はぼくの「やりたいこと」だ!さあその力を存分に発揮するがいい!

そんな身勝手な話なんてないのだ、それで、はいそうしますと、言うことを聞くようなやつはロクなやつではない。

だから動かない、ムチを打たれて無理やり働かされてる他の義務たちよりも動かない。

じゃあどうすればいいのか。

そんなことわかるわけがない。

わかるわけがないが、それでも何かを変えたいなら、野生の欲望の中でもとびきり元気で、もちろん言うことを聞かない、しかしとびきり魅力的なやつの首にしがみつき、叩き伏せようとしては逆に組み伏せられ、背中に飛び乗ろうとしては振り落とされ、何かを教えこもうとしては逆に知らなかったことを教えられ、そのプロセスの中で自分自身が変わっていくしかない。

プロセス、という言葉が出てきたら思ったのだが、本当の「やりたいこと」というのは何らかの結果なり成果を上げることではなく、それをやり続けていくこと自体がゴールだったりするので終わりはない。

終わりがないということは始まりもないのである。

さあやるぞ、とか、よし始めるぞ、とかいうのもないのである。

そういう途方のないものを相手にする場合、ぼくらにできることはあまりなくて、それは、決して近寄らないようにするか、あるいは肩の力を抜いて、ただ身をゆだねることぐらいだろう。

そういえば、ぼくにはさあブログを始めるぞ、なんて奮い立って書き始めた記憶なんてない。

手元に意識を、取り戻す。



情報があふれ、遠い存在の話がまるで目の前で起きているように見え、おまけに直接クレームを入れたり同情コメントを寄せたりできるから、まるで自分も同じ位置にいるような錯覚におちいり、なのに具体的には何もできなくて不全感に満ち、自分の小ささにがっかりし続ける。



そうしている間じゅう、ぼくの意識は四方八方に細切れになって散っていき、判断力が弱り、価値観が揺れ続け、ワクワクするアイデアはまったく生まれない。

それがいけないことなのではない。

そうやって遠い向こうに思いを馳せ、憧れる対象を求め、変われるきっかけを探す時期も、定期的に必要なのだ。

だけど放浪の旅はどこかで一度終わらせなきゃいけない。

ゆっくりと深呼吸をして、あちらこちらに散らばった意識をぎゅっと集め、場合によったらそれなりに時間をかけてじっくりと呼び戻し、自分の手の届く範囲に取り戻さなきゃいけない。

その手はあまりに小さく、力は弱く、丈夫でもなく、ちょっとの仕事にもひどく時間がかかり、一度につながれる人は一人か二人ぐらいで、たいした影響も与えられない。

それでも、自由に動かせて、早く反応できて、人をやさしく抱きしめることができて、妄想をメモにできて、地図を握りしめることができて、新しい世界につながっている扉を力をこめて押すことができる。

あっちこっちへと散らばってしまっている意識たち、憧れ、承認欲求、好奇心、冒険心、勇気、あるいは慎重さ、臆病さ、怠惰、うしろめたさ、弱さ、安らぎ、想像力、そして愛情、わが同胞!

この手元に戻り、いま目の前で変わり続けるできごとを少しでもマシなものにするために、力を合わせ、ぼくというひとつの姿を借り、ともに進んでいこう。

見えている景色は退屈で凡庸で変わりばえがないかもしれないが、それを変えることができるのは、この小さな手であって、見知らぬどこかの誰かではない。

それから、変えることだけにこだわる必要はない。

ひとつのことを深めること、味わうこと、楽しむことに、どっぷりと浸かってもいい。

自分の手の届く範囲にあるものをしっかりとつかんで。

少し離れているぐらいのものなら、ぐっと力をこめてたぐり寄せ、自分のものにすればいい。

たけど、あまりに遠いところに行くときは、みんなで相談だ。

思いきりジャンプして崖から落ちてもちゃんと受け身が取れる自信があれば飛べばいいし、無理なら今はやめておけ。

迷うことがあったら、何度でも、何度でも、手元にまた意識を戻せ。

いまできること、自信をもってやれること、苦労はそれなりにするのはわかってるけどしかしきっと自分ならやりきれるだろうことに全力を尽くせ。

あの手この手を尽くして、すっかり年を取りきって、また遠いどこかにふわふわと意識が離れていって、しかし今度はすぐにまた手元に戻ってきて、なんだ大切なものは全てここにあったじゃないかと、そう言い切れるようになるまでは、何度でも、何度でも、手元に意識を戻せ。

ここではないどこか、よりも、他にはないここを作っていけ。

わが同胞!

ワークライフバランスなんて、いらない。



年末年始、しっかり仕事を休んだのだが、ずっと体調が悪くて家事にも全然手が回らない状態だった。



休みに入るギリギリまでやたら忙しくてすでに体の具合が悪かったから、それも原因かもしれない。

だがそれ以上に、家にいると色んなタスクがあって、普段の仕事以外でやっておきたいと思っていた読書や情報収集をする時間は意外となくて、やるとしたら子どもが寝たあとの深夜だが、遅くまで起きてさらに体調を崩すのも怖くて、結局何も手をつけられずにいる、その焦りとか不安がひどくて、久しぶりに、実はまだ自分は大学が卒業できていないという設定の悪夢を見たりした。

それで、最近ぼくは過剰にワークライフバランスなるものを気にしすぎていたなと思って、この両者はそもそもワークとライフに分割するから不幸が起こるようにも思った。

会社にいたって、家庭にいたって、あるいは旅行をしていたって、そこには業務なり家事なり日程の調整なり、何らかのワークは発生するのである。

ワークとライフが別々に存在するようなことを言うから、ワークはライフをちょっとバカにしつつも腫れ物に触るような態度を取り、ライフはワークにちょっと遠慮してるようなフリをしつつもなんだいつも偉そうにしやがってと思ってる、そんな状態が起こるのだ。

必要なのは、この剣呑な感じの両者の間に入ってまあまあとバランスを取ることではなく、分かれてしまったライフとワークという二つの人格をひとつに再統合することなんじゃないだろうか。

じゃあその統合された人格は何なのだと言われたら、これはいたってシンプルで、生きること、である。

仕事をしたって、家事をしたって、何もしなくたって、生きてることに変わりはない。

生きること自体を、これからどうするのか、実はぼくらはそんなシンプルで、そしてとても難しいお題を与えられている。

しかし、ぼくは今なら、ワークとライフの間に挟まって気疲れしながら死んでいくよりも、生きることをどうするか、という問題に正面からぶつかっていったほうがずっと楽しいように感じている。

遅くまで仕事していたって、家事に追われていたって、その両方の中でにっちもさっちもいかなくたって、それは生きることには変わりない。

同じ生きるなら、たっぷり悩んで、たっぷり試行錯誤して、たっぷり苦労して、たっぷり幸せを感じて、たっぷり笑っていきたい。

あと、ほんのちょっとでいいのでこの世の神秘に触れてみたい。

それが、ぼくが望むものだ。



ワークとライフのバランスなんか、いらないのだ。