弱くなる、練習。




若い頃に自分が一番時間と労力を費やしていたのは、自分が好きなものは何かということについて知ることだったと思う。



自分が好きなものが何かがわかれば、どんなことが起こるかというと、好きではないものへの拒絶反応だったり軽蔑だったり恐怖である。

しかし働き始めると好きなものよりもずっと多くの好きではないものを受け入れていかないといけなくなる。

それで、今思うに、そういう嫌なものを受け入れざるをえないプロセスの中でこそ、本当の自分らしさというか本性というかそういうものが現れてくるような気がする。

サラリーマンというのは毎日がロールプレイングゲームだから、みんなそれぞれの役割をプレイしている。

あなたは得意先の依頼を忠実に受ける下請け会社の一社員です、という役割が与えられたら、それがぼくがプレイできるたった一つのゲームである。

たとえ本当は魔法を使えたとしても戦闘が得意だとしても、そういうことはまったく求められていない、なぜならそういうゲームだからである。

仕事なんてものはそういうものだ、そういうものだとわかっていてもはいそうですかと魔法の力が宿る杖を電卓に持ち替えて、すぐに注文を取りに走り出すことができるわけではない、そういうためらいや戸惑いの中にこそ、その人らしさというものがあるのだと思う。

ただ、多くのサラリーマンがプレイしているゲームでは、そういう人間の逡巡や弱さは通貨として流通していないので、これを徹底して克服するように求められたり、あるいは個人のこだわりを超えたチームや組織による行動がいかに尊いかを説かれたりする。

会社というのは本当に不思議な存在だなと思う。

自分だけでは何ともならないことが、会社という組織の一員であるだけで簡単にできてしまう。

関係者以外入れない秘密のドアの向こうにすんなり入れたり、一人でやったら何週間もかかってしまいそうな書類が数時間で完成してしまったり、おまけにそこで大切な友人や結婚相手まで手に入ったりする。

まさしく壮大な長編ロールプレイングゲームだ。

しかし、このゲームにはちゃんと掛け金が存在していて、それは一定量の価値観をゲームに投じ続けることだ。

経営者と従業員、先輩と後輩、得意先と発注先などさまざまな関係性を受け入れること、あるいは自分たちが世の中に対して提供する商品やサービスとは何かということについて意識を共通させること、あるいは明記されていないがそこにたしかにある不文律を決して破らないこと。

もちろん、自分が大切にしていることのうち、どれだけたくさんのことを仕事に投じるのか、それはその人次第だし、より多くの価値観を会社に捧げたからといって必ずしも報われるとも限らない、しかし程度の差はあるとはいえ、ぼくらは自分たちが働く会社の価値観に多少なりとも影響を受け、行動や思考を制約され、人格を変容させられている。

別にそれがいいとか悪いとかいうことではない。

ただ、いつのまにかぼくは自分の好きなものを簡単に捨てたり、あるいは嫌いなものを簡単に受け入れたりすることに慣れすぎて、そのプロセスをじっくりと味わうのを忘れてしまっているように思う。

その人らしさというのは、何か苦手なものに出くわして、ううんこれはどうにも呑み込めないがどうしたものかと困り顔になっているときや、いやいやこれはちょっと捨てるのは惜しいなあとうじうじ悩んでいるときにこそ、出てくるものだ。

そういう人間の苦い感じの部分、しょっぱい味のする箇所を無視して完成させた仕事というのは、どうも淡白で、人の心を惹きつける力が欠けているように思う。

自分が好きなものがちゃんと真ん中にあって、しかし好きではないものも受けれないといけないという不安定な気持ちがその周りにあって、その弱い部分を狙って食らいついてくる苦手なものたちがいて、それをなんとか自分のものにしようとしたり、あるいはあきらめたり、かっこ悪くじたばたしている行為こそ、生きるということなんじゃないだろうか。

ぼくはひょっとしたら、何でもかんでも簡単に受け入れたり、すぐに好きになってしまうことで、こういうかっこ悪い自分を隠そうとしているのかもしれない。

しかし人生にそろそろ残された時間も短くなっていく中で、つまらない「ええかっこしい」のためだけに、人生の苦みや酸味を知らずに過ごすのはずいぶんもったいないようにも思う。

もっと苦手でも、もっと臆病でも、もっと弱くても、それでいいのだ。

スーツの上に、何を着るか問題。



いろんなものを重ねて着るのは避けたいのだ。



理想は、シャツを着た、ジャケットを着た、その上にあと一枚何かを着た、という3枚だ。

そうすればそうでなくてもクソ忙しい朝の服を着る時間が短くなるとか、へとへとになって帰ってきたときでも楽に脱げるとか、まあそういう理由はどうでもよろしい、要はシンプルにしたいのだ。

ところが現実はそう簡単ではなくて、シャツの下に何か肌着的な、できればちょっと体温が逃げないみたいな工夫がしてあるやつをつい一枚着たくなるし、まあそれは好みの範囲だとしても、やはりジャケットの上にコートを一枚だけ着ると、心もとない。

おまけにそのコートが、よくあるジャケットと似たような仕様の、胸のところが開いているやつだと胸から首にかけてのスースーが耐えられない。

耐えられない結果、マフラーをする。

もっとタチの悪いのは、マフラーをしたついでに手袋までしてしまう。

こうなるとせっかくシンプルに行こうとしていた計画が台無しである。

シンプルでない上に、いちいちマフラーや手袋を付けたり外したりすることが面倒な上に、落とし物の危機にさらされることになる。

特にこの飲み会の多い季節である。

酔っぱらっている状態で、会社用のスマホに自分用のスマホに財布にICカードにほにゃららにと色んなものをなくさないように気を配らないといけないのに、マフラーや手袋の管理までしていては大変だ。

ものすごいストレス!

ストレスと言われてみれば、気のせいかコートってちょっと重いし、肩が凝るようにも思い始めてきた。

ネクタイしめてジャケット着ているだけでも肩が凝るのだ、この上にさらなる負荷は避けたい。

ううん、厳しいぞコート。

となるとコートをあきらめて、ダウンジャケットである。

ダウンジャケットはすごい。

シャツを着た、ジャケットを着た、ダウンジャケットを着た、この3枚で、まあ大阪や東京の冬ならだいたい大丈夫である、これはたしかにすごい。

ただ残念なことに、とにかくモコモコしている。

寒い外を歩いているときはあまり気にならないのだが、暖かい屋内に入ったときに自分だけモコモコしていると、何一人でモコモコしてるんだと、ひどくバカげて見える。

おまけに、うっかり満員電車に乗ってしまうと、過剰に熱を吸いこんでしまったモコモコに身体をしめあげられて脂汗をダラダラ流し、ハアハアと気味の悪い声を上げながら苦しむこととなる。

相当気持ち悪い。

いやいや今は薄くておしゃれなダウンジャケットもありますよと諸兄はおっしゃるかもしれないが、そういうダウンジャケットというのは総じて値段が高い、そんな高額なダウンジャケットを買ってしまっては、汚さぬように、傷つけぬようにと気を使ってしまって、これまた無駄に肩が凝る、必要な時にサッと着て、いらなくなったらサッと脱ぐ、そういう気軽な感じが、高級で薄くておしゃれなダウンジャケットには全くない、これでは本末転倒である。

さあて、一体何を着ればよいのか、さっぱりわからなくなってきた。

ならば流行のなんたらテックのような軽くて安いものを着たらいいじゃないかという諸兄もおられるだろうが、これがなかなか厳しい。

スーツの上にあのツルツルした素材のなんたらテックを着ると、なぜかだいたいの男性は、会社のジャンパーを着てるのとほぼ変わらないシルエットになるのである。

これなら会社のジャンパーを着ていたらいいではないか、支給されるのならお金もいらないし。

いやむしろ、それが正解なのかもしれない。

どうせ会社に通うため、あるいは会社の仕事をするために外出しているのであれば、会社のジャンパーを着て通勤すればいいのだ。

私は会社の仕事をするために移動している最中なのですよ、と周りからもわかりやすい。

なんて開き直っても何の解決にもならない。

それじゃ少し趣向を変えてみようかと、
ちょっとカジュアルなカーキ色のジャケットを着ればみんな出世ルートから外れた所轄の刑事になる。

がんばって皮のジャケットを着てみれば出世ルートから外れたあと闇の組織から裏金受け取ってる刑事になる。

思い切って変わった素材や色のジャケットに挑戦すれば出世ルートからはまだ外れてないがこのあと犯罪組織への潜入捜査がバレて見せしめで殺される刑事になる。

結局、何着ても刑事になる問題!

一体、いつになれば冬の上着に関する答えが見つかるのか。



今のところは、完全に迷宮入りしているのである。

好きは、本当に好きなのか。




好きなことを仕事にするべきかどうか。



id:fktackさんの記事を読んでいて、fktackさんは、好きなことができる会社に転職するから辞めるという後輩としゃべってから、後でこう思ったそうだ。

好きもいいけれど仕事は他人のやりたがらないことをするとポイントが高い 誰でもできるがなるたけやらずに済まそうとすることが良い しかしポイントとはお金のことではなく 居心地とかそんなのだ

好きというのは足枷だ - 意味をあたえる


ちょうど最近、会社の後輩とそういう話をしていて、人には「やりたいことがある人」と「ありたい自分がある人」がいて、まあ無理に二つに分けなくても誰だってその両方があるのだけど、いぬじんさんのようにいつも何かやりたいことがある人ばっかりじゃないんですよ世の中はとその後輩から言われたところだった。

そんな風に言われると、自分はいつもやりたいことがある、好きなことがある状態だったのかと振り返ってみるに、果たしてそれが「やりたいこと」なのか、自分として勝手に「やらなければいけないこと」と思い込んでいるだけなのか、そのあたりは怪しい。

コピーライターを目指していたときも、コピーを書きたいというよりは、自分はコピーを書かなければいけない、そうじゃないとダメなんだという妙に切迫した気持ちが強かったような気がするし、コピーを書き出してからも、いいコピーを書かなくちゃいけない、というやっぱり切羽詰まった感情をいつも持っていた。

じゃあそれが楽しかったのかどうかと言われるとよくわからなくて、楽しいこともたくさんあったが同じかそれ以上に辛いこともあって、だから今はコピーを書かなくてよくなってちょっとほっとしている部分も正直あるように思う。

そう考えてみると、ぼくの場合は「好きなこと」というのはどこかで「やりたいこと」から「やらなければいけないこと」に変わっていく傾向があって、そのうちそれが辛くなってくるので、何かの理由でそれができなくなっても、会社から無理やり異動させられたりしても、それはそれで内心は解放されて気分転換になっているのかもしれない。

あるいは、ぼくは頭のどこかで、いつもやりたいことをやらなければいけない、というように自分に言い聞かせているかもしれなくて、もしそうだとしたらそれはそれで他人の目から見れば苦しい生き方のようにも思えてくる。

しかしぼくはたいして苦しいとは思っていなくて、それはぼくの全てが「やりたいこと」で満たされているわけではないからであって、いつもぼく以外の何か、急な部署異動やわけのわからない相談や子どもの急な発熱や新幹線の立往生によって影響を受け、「やりたいこと」自体が変わり続けていくからである。

そう考えると、人間は好きなことだけじゃ生きていけないというか、つまらないというか、他人のやりたがらない仕事もやったり、あるいは全く何にもやらなかったりしているうちにまた新しい楽しみが見つかったりするので、あまり好きかどうかということにこだわりすぎても仕方ないのかもしれない。

ここまで書いていて思ったことだが、自分が本当に求めていることは、自由、というものに近い気がして、それは全てのものから解き放たれた自由というよりは、何かを勝手に好きになる自由、というイメージがある。

ということは反対に、嫌いになる自由や、飽きる自由もあってもいいわけである。

であれば、自分ができることは色々あったほうが好きになれる選択肢は広がるし、嫌いになっても別の好きを探しに行くことができる。

問題は、年をとるとできないことも増えてくるので、新しい好きを見つけるよりも、深めていくほうに目が行くような気もする。



しかし視野が広がるので新しい好きがより見つけやすくなるような気もする。