月給30万円の、船に乗って。




日本人はだいたい月給30万円で働く、みたいな前提で作られてるシステムがあまりに多すぎる気がする。



家の値段も、塾の月謝も、車のローンも、はてなブログProの月額も、それを前提に決まっている。

それは非常に社会主義的というか、誰もが月給30万円前後の幅の中で暮らしましょう、その範囲でガマンしあって譲りあって暮らしましょう、みたいな話なのだろう。

資本主義的な、俺は実力で年収1億円稼ぎ出すぜイエーイ、ビンボーなのは自己責任だイエーイ、みたいな考え方は、一時期はそれなりに速いスピードで浸透しそうだったが、どうも一部にしか到達してないようにも見える。

いやむしろ一部の人間にしかその恩恵は得られないことを考えると、すでに浸透したあとなのかもしれない。

それでまあ、時代によって主役となるプレーヤーは変わる、みたいな話でいくと、戦後直後は闇市などで活躍した起業家の時代があり、高度成長の人口ボーナス時は一億総中流の時代があり、不況以降はリスク回避で経営者から投資家にバトンが渡り、いまやハイエナファンドが国家を食らう、みたいになりつつある。

もはや月給30万円で暮らす人生が成立してることが、奇跡でしかなくなっている。

いまのところ、日本で暮らすということは、どれだけがんばっても月給30万円という中で、いろんなことをたくさんガマンしながら暮らすということを意味する。

おしあいへしあいしながら顔ではニコニコしつつ、いつ沈むかわからない船にしがみつく、ということを意味する。

こんな状況が正しいのかそうでないのかは、どうでもいい。

ただ、情報革命以降、世界が圧倒的に狭くなっていく中で、ひどく息苦しく、頼りなく、ちっぽけな場所にいるように感じる。

その感覚が一年近く、自分から離れない。

みんなが孤独な世界は、それほど不幸な世界ではない。

 

 

 

 

クリスマスの季節が近づくと、いまだに孤独な気持ちになる。

 

 

 

やわらかく、あたたかそうな服を着て、お互いにニコニコしあっている人々がたくさん目に入るからだ。

 

自分に恋人がいようと家族がいようと、ひとりぼっちでいる時にそういう光景を見るのはまったく気分の良いものではない。

 

いま自分がとても孤独であることがひどく強調される。

 

クリスマスは孤独な人間を、孤独であるという理由で糾弾し、幸福な人々を目の前で見せつけるという方法で罰する。

 

ひどい暴力である。

 

人が自分のことを孤独で辛いと感じるのは、周りにそうではない人間がいるときだ。

 

もしたくさんの人の中でひとりぼっちでいたとしても、他の人たちもひとりぼっちであれば、たいして苦痛だとは思わない。

 

満員の通勤電車の中では、ほとんどの人はひとりぼっちである。

 

牛丼屋とか公衆便所とか本屋とかも近いように思う。

 

そういう場所では、ぼくは安心して自分の孤独を味わうことができる。

 

孤独な時間は、1つのことへの深い考察や、反対に色んなことへの広い想像をもたらしてくれる。

 

どこまで続いているのかわからない暗い洞窟をあてもなくさまよっていたって、危険だとか腹が減ったとか、誰にも文句は言われない。

 

あっちの世界からこっちの世界へと気まぐれに飛び回って思いつきで行動していたって、計画性がないとか他人への思いやりがないとか、つまらないことも言われない。

 

そして、もし誰もがこのような孤独な時間を楽しみ、愛していたら、自分だけがひとりぼっちで不幸な人間なのだという辛い気持ちになることもないように思う。

 

ぼくは人間が好きだ。

 

違う考えをもった人間同士が、異質なものを組み合わせて新しいアイデアを生み出す作業が大好きだ。

 

しかし、その異質なものの大部分は、その人が孤独な時間の中でじっくりと育ててきた、とても個人的で、とてもかっこわるくて、とてもあやしくて、とても不完全なものだ。

 

ぼくはいつまでもかっこわるくて、あやしくて、不完全な人間であり続けたい。

 

孤独な時間をじっくりと楽しみ、どう扱っていいかよくわからないような異物を持ち帰ってみたい。

 

そして、孤独な人間同士で収穫物を見せ合って、物々交換して、おしゃべりして、ひとしきり楽しんだら、またひとりぼっちで、真っ暗な孤独の闇の中に沈んでいきたい。

人生の、目的地とは。

東京出張した時に中途半端に時間が余り、美術館に行くには無理があるし、人に会うには急すぎるし、さてどうしようかと思って、家族に買って帰るお土産をちょっとじっくり選ぶことにして、いいものを買うことができてとても満足した。

東京に行くとあれもしとかなくちゃこれも見とかなくちゃと、妙に落ち着かない気持ちになる。

しかしぼくはそういうやりくりがとても苦手なので、そんなにうまく用事をこなせない。

結局何もできずにがっかりすることと比べたら、家族のお土産をじっくり吟味するのはなかなか良い時間の使い方だと感じる。

若い頃はどこか遠いところに行くときは、そのどこか遠いところこそが目的地だったけど、いつのまにか、遠くへ行って、戻ってくるところが目的地になっている気がする。

家を出るときや保育園を出るときは、いってきます、と言う。

いってきます、はたいていの場合、ただいま、と対になっているから、やっぱり戻ってくるところまでを織り込んでいる。

もちろん人生というのは、いった先で終わってしまったりもするが、まあ本人が戻る気があったなら、そのプロセス自体は進行中だったわけだ。

それから、誰かがいって、戻ってくるという構造の中には、その人を待っている存在が必要で、別にそれはネコでも飲みかけのワインでもなんでもいいのだが、ぼくは少し前に長めの休暇を取って、毎日家事をしながら妻が仕事から帰ってくるのを待つ、という生活をしていたことがある。

あの時に気づいたが、待っている側というのは、相手がいつ戻ってくるのだろうということに非常に敏感になるのだ。

それはいいタイミングで出来たての料理を食べてほしい、というちゃんとした理由もあれば、もう少しダラダラしていたいからまだ帰ってこなくていい、というやましい動機の場合もある。

しかしいずれにせよ待っている側は、ちゃんと待っているのだ。

戻ってくるために行く人と、それを待つ人。

なんとなく、この組み合わせが家族の最小単位のような気もする。

これは職場でも、ただいまとかおかえりなさいとか声をかけあうところにいたことがあるが、やっぱりそのことがコミュニティを形成する要素だと考えられてるように思う。

まあ、生きていれば、戻るつもりでいったっきり、そこから路線変更して違うところにいったり戻ったりする場合もあるだろう。

けれど、お盆には死者が戻ってくるのと同じように、やはり人間の魂みたいなものは、いったり戻ったりを繰り返したがるものなのだろう。

そう考えると人生というのは単純な一方通行ではない。

むしろ、いってきますとただいまのあいだにこそ真実が隠されている。