大阪弁的な、生き方。


ぼくは普段は大阪弁で話しているくせに、書き言葉になると急に標準語になる。



別にぼくに限らず、方言を話す人はだいたいそうだろう。

ぼくは大阪弁のことしかわからないから大阪弁に限っての話だが、大阪弁で話してる人の話は、標準語のそれよりも頭が悪そうに聞こえる。

頭が悪そうだというのは、特に現代においてはあまり歓迎されないイメージだろう。

だからぼくは大阪弁で文章を書かないのかなと考えてみて、まあたしかにそういう部分はあるかもしれないなとは感じる。

しかしよく考えると、ぼくは小さい頃からこういう文体で文章を書いていた。

読む本のほとんどが標準語だからというのもあるが、そもそも学校で注意されるからである。

国語のテストで、サチコちゃんはほんまにかわいそうやとヒロシは思ったから、と回答すれば、減点である。

大阪弁はダメな言葉だ、ということを幼少期に教えこまれるのだ。

だからぼくはダメな言葉だとわかっていて日常的に大阪弁を使っている。

この使いやすくて人の心を豊かに表現できる言葉は、とても便利だ。

便利だが、テストでうっかり書いてしまうと人生に悪影響を与えてしまう。

また、大阪弁を使った思考回路を標準語の文章に正確に落とし込もうとすると、やたら冗長で何を書いているのかわからないものになったり、逆に異様に情緒的な「くっさい」ものになったりする。


ぼくはこういう「便利だが正しくないもの」と「正しいが不自由なもの」を使い分ける人生を子供の頃から送ってきている。

それじゃ本当の自分の考えに近いのはどっちかというと、やっぱり大阪弁だろう。

大阪弁的な、形式や表面的なものにとらわれない直感的な思考は、とてもスピードが速い。

スピードが速ければ何が良いかというと、失敗してもやり直す時間ができる。

「やってみなはれ」という言葉には、失敗した場合のやり直しの余地が残されている。

これが「やってみろ」では、もうやる前からやられて再起不能になってしまう。

ぼくが標準語で文章を書くときには、一度そういうプロセスを進んできた考えを、窮屈な箱に押し込めて、無理やり整理して並べている。


ぼくにはこういう自分の中の大阪弁的なものに対する近親憎悪みたいなものがある。

小さい頃からずっと頼り甘えてきたくせに、人前には絶対に見せたくない、恥ずかしい肉親のような、そういう感覚がある。

しかし最近は、この大阪弁的なものを隠すのはやめようと思っている。

どうせ自分は正しい人生なんて歩いていない。

人様に胸を張って誇れるようなことなんて特に何もしてきていない。

であれば、頭が悪いと思われようが、気持ち悪いと思われようが、これまで自分を支えてきてくれた大阪弁的な思考、大阪弁的なふるまいに感謝して、堂々としていればいいのだ。

とか言いつつ、標準語のままでブログを書き続けている矛盾については何の申し開きできることもない。

矛盾を抱えながら試行錯誤をしていくこともぼくの中の大阪弁的なるものの一つだと、苦し紛れに言っておこう。

(というようなもっともらしいことを標準語で言ってのけて、カゲであっかんべえをしている感じも、とても大阪弁的だと思う)

お金を出して、不安を買う。





大学生の時は、貯金なんて一切してなかった。



バイト代は、バイトが終わったあとに飲みに行って大部分は使ってしまった。

バイト仲間にハーフの先輩がいて、俺はハーフだからといってハーフアンドハーフのビールばかり飲む。

お前はハーフじゃないから本来は飲む権利はないが、俺が特別に許してやると言われたので、ぼくもいつもハーフアンドハーフのビールを飲んでいた。

先輩はぼくをかわいがってくれていて、色んなことを教えてくれたが、インターネットのエチケットのことをネチケットというのだとメールごしに教えてもらったことしか覚えていない。

先輩はいつも微妙に多めに飲み代を払ってくれたので、いつも微妙にお金は残った。

それで本とCDを買ったら全部で、夏休みは少し収入が多かったが、そのぶんで服を買ったら、だいたい何も残らなかった。

ぼくは大学生の頃に、大学生じゃないとできないような経験を何もしなかったことをいまだに後悔していて、もっとたくさん勉強をしておけばよかったとか、もっと色んな遊びをしたらよかったとか、そういうことを思うだけでモヤモヤとした気持ちになってくるので、キラキラした大学生活を送ってる若者を見かけるといまだにイラっとする。

ぼくはつまらないプライドがとても高く、通っている大学は本来自分が希望していた大学ではないという理由だけで同じ大学の人間とはほとんど交流を持たなかったので、大学生活の中で新しい刺激は全然与えられなかった。



大学には行かず、神戸のセレクトショップに行き、そこで店のオーナーと音楽の話をした。

オーナーはずっと年上だったが、ぼくはお客としてお店に行くから、気を使わなくてよいのだった。

彼はニューヨークで服を買い付けてきた時の話や古いレコードの話をしてくれた。

自分も本はよく読む、と言ってから、しかし自分の好きな作家の名前を忘れ、その場で誰かに電話をかけはじめ、俺の好きな作家って誰やったっけ、と聞いた。

聞かれたほうも突然の質問だったので答えるのに時間がかかっていたが、ようやく中上健次ということがわかり、ぼくはその人を知らなかった。

オーナーは相手に何か知らないことがあっても決してバカにしないので、知らないと正直に答えたが、案の定バカにはされなかった。

もちろんそれはぼくがお客だからである。

面白いからぜひ読むといい、と言われたので帰りに書店で『枯木灘』を買って読んだが、いつもオーナーが教えてくれるような爽やかな音楽とは全く違う内容で、暴力的な表現がある割には退屈な文章だった。

途中で止めたくなるのを我慢して懸命に読み終えたが、どんな話だったのかほとんど覚えていない。

一体、オーナーはこの小説をなぜ面白いと思ったのかよくわからなかったが、あの頃は本も音楽も、自分が良いと思うかどうかよりも、良いと言われたものを読んで、聴いて、その良さを理解しようと努力することが一番大事だと思っていた。

むしろ自分が心地よいとか面白いとか思わないものと出会うことのほうが重要で、それを滋養のある食べ物のようにしっかりと噛み砕いて飲み込み吸収できるかどうか、そのことに関心があった。

枯木灘』は結局噛み砕くこともできなかったが、バイト先の先輩でアメリカ文学を研究している人がいて、その人からはポール・オースターを読むように強くすすめられた。

ポール・オースターの小説はとても読みやすかったので、書店で買える本は全部買って読んだ。

彼の小説はとてもにぎやかなのに、とても孤独で、読み終えた時に得体の知れない不安が広がるのが特徴だった。

この得体の知れない不安というのはそれよりも少し前からぼくの中で少しずつ大きくなってきていて、それをより大きくするものを、どうもぼくは良い本だとか面白い本だとか思うようだった。

しかし読めば読むほど不安になるようなものを果たして良いものとして本当に評価してよいのかどうかは、よくわからなかった。

自分は生きることに対して漠然とした不安を抱えている、と自分で思うことは、実はとても楽なことだった。

ぼくは実際は自分の将来に対して、全く漠然としてはいない、具体的な不安を感じていた。

やりたいと思うこともなく、やりたいことを見つける方法もわからなかった。

大学には全然行かず、将来どんな仕事をするかも考えず、好きな女の子もいなかった。

生きることが不安だと思っておけば、なんとなく自分は高尚な悩みを抱え、強大な敵を相手にしているような気持ちになれるので、都合がよかったのだ。

しかし、いつまでも、そういうよくわからないものを相手にしているわけにはいかないということも、わかっていた。



音楽のほうはそんなに複雑ではなくて、まず他人から良いと言われた洋曲のCDを順に買って、それを何度も再生して聴き込み、これが良い曲なのだということを刷り込めばよかった。

曲はどれだけ古い曲でもよく、むしろ古いが名曲だと言われているもののほうが重要だった。

古い洋曲を聴くのに飽きてくると、古い邦曲を聴く。

新譜を聴くのはあまり良いことではなかった。

その音楽が良いか悪いかを判断できないあいだは、新譜を聴くのはただの気晴らしにすぎず、聴きやすくて受けのいい流行の曲ばかり聴いていると「ヨゴレ」として馬鹿にされるのであった。

そうやって良い曲だと言われているものを何度も聴き続けていると、街やテレビで流れている音楽もこれまでとは違ったように聴こえてくる。

違ったように聴こえてくるが、それはSMAPの曲はどれもとても良い曲だなとか、槇原敬之は本当に素敵な曲を作るなあとかそういう感想なので、まあたいした成果ではない。

ドラゴンアッシュの曲はどれもつまらないと感じた。

どれだけ自分がお金と時間を費やしても、それぐらいのことしか変化がなかったので次第に音楽に対する関心が薄くなってきて、それよりも自分の将来のことのほうが心配になってきた。

良いと言われる音楽を聴いて、良いと言われる本を読んだ結果、得ることができたのはいずれも自分の現実に対する、このままで大丈夫なのだろうかという具体的な不安であり、ぼくはもっと高尚な成果を期待していただけに、がっかりした。



年の暮れに、いつものように神戸のセレクトショップに行ったときに、ぼくがとても尊敬している人が偶然来ていた。

その人は音楽にもダンスにも精通していて、とてもマニアックな曲ばかりが入ったかっこいいミックステープを聴かせてくれるのだけど、その時の彼はとてもうれしそうな顔をして、今年一番良かったのは宇多田ヒカルMISIAで、こういう音楽が日本に現れたことを本当にうれしく思うと、それは本当にうれしそうに話していた。

ぼくは宇多田ヒカルMISIAをとてもいいなあと思っていたので、とてもうれしかった。



その人はそれからしばらくしてデザインの修行をするとか言って外国に旅立っていってしまったが、ぼくは日本で就職するために大学に通い直すことにして、単位が全然足りなかったので夜間の授業も出たりして無理やり数を集めることに腐心した。

大学を卒業して、就職してからも本はそれなりに読み続けている。

やっぱり良い本を読むと、相変わらず不安な気持ちになるし、その不安というのは、日々の生活における不安とはまったく別物なので、結果的には楽な気持ちになる。

それは別にビジネス書を読もうと、小説を読もうと同じなので、そういう意味ではどうもビジネス書というのは、本当は実生活には何の役にも立たないものなのだろう。



音楽はあまり聴かなくなった。

聴かなくなったが、車のラジオや、子どものプール教室の待合室で流れている音楽を聴くのは好きだ。

子供番組で使われている曲もいい曲がたくさんある。

宇多田ヒカルのCDは、小遣いが余れば買いたい。



お酒は飲めなくなってしまったので、よくわからない。



ドラゴンアッシュの曲は、今でもどれもつまらないと感じる。







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死者の国から、2016。



下の子が怖がるだろうからということで、妻もぼくもUSJのゾンビを見たことがない。



祖母と一緒にゾンビを見たという上の子の目撃情報によれば、人間の肉を食べていたという。

さすがにそんな恐ろしい光景はまだ見せられないと思い、なんとなくそろそろ出てきそうだというあたりで帰途に着く。

もう夕方だというのに、まだまだ入場口からはたくさんの人たちがやってくる。

みんな顔なり身体に大きな手術跡や致命傷になりそうな傷口の意匠を施すことで、自分たちは死者の一員だということをアピールしている。

そして誰もが、これから始まる死者の復活と殺戮の儀式をウキウキと楽しみにしている。

なぜこんなお祭りが大阪で盛り上がるのかといえば、大阪が死者の国だからだ。

生命の象徴である太陽は時とともにその活力を失い、この西方の土地へと沈んでいく。

大阪には夕景が美しい場所がたくさんあって、特に大阪港は名所がいくつもある。

大阪の海は悲しい色やね、という歌があるが、これが朝日ではそうはいかない。

夕陽丘という地名もあり、ここは大阪の歴史がたくさん詰まった、重要な場所でもある。

おまけにUSJはそんな大阪の西端に位置する人工の島だ。

それは、死者を祀るためにわざわざこしらえた巨大な祭壇である。

そこで死者の復活を祝う派手なお祭りがあっても、おかしくもなんともない。

死というのはそこで終わってしまうものではなく、死によって人口が減ることを悲しみ、悼み、祀ることによって、新たな生命を増やす動機となり、生殖活動を促進する。

夕方からの客がカップルだらけなのはそういうことだ。

女性たちの露出度がやたらと高いのもそういうことだ。

また、USJの今のキャッチコピーは「REBORN」である。

アトラクションに乗るときや降りるときも、これをみんなで復唱させられる。

死者を祀ったあとは、そのREBORN、復活を祝うのだ。



生きていると色々なことがある。

ストレスも疲れも溜まるだろうし、いつまでも頑張りっぱなしでは息が詰まる。

そんなときは、この大阪という死者の国に来て、日常の煩雑な物事を忘れて小さな死を迎え、地獄からの死者とたくさん遊び、うまいもんで食いだおれた後は、自身の復活を祈り、ゆっくりしていってはどうだろう。

少なくとも、京都に行くよりは、ずっと良いことがあるはずだ。