虫の、服。



せっかくの秋が来ているというのに蒸し暑い。



近所を歩くとたいていの人は半袖で、大阪は特に気温が高いから、1年のうちで半袖ですごしてる月を数えると、実に5月から10月の半年間となる。

コートなんて着るのは1月と2月ぐらいで、残りの季節はジャケットさえ持っていればだいたいなんとかなる。

そう考えると、この地で生きるのに、そんなに色んな種類の服はいらないのである。

好きな色も変わってきていて、ちょっと前までは派手な色ばかり着てたのだけど、最近は紺とかネズミ色とか黒ばかり着ている。

若い頃は服ばかり買っていた。

仕事が少し落ち着いて自由にできる時間が手に入ると、とにかく買えるだけ服と本を買って、他に何かしたいことも思いつかなかったし、買い物している時と本を読んでる時以外は仕事のことで頭がいっぱいだった。

それじゃ今はもっと他のことを考える余裕があるかというと別にそんなことはなくて、仕事に加えて、生活とか育児とかやらなきゃいけないことはあるものの、やっぱり仕事のことや仕事の延長にあることばかりを考えているので、何も変わってはいない。

ただ、服を買ったり合わせたりしてる時間もお金も減ったので、それに伴って服への関心も薄くなってきたのだろう。

結婚してしばらくしてから、週末に薄手で無地の白いTシャツを着て、人と会ったら、君も結婚したらそんな格好をするようになるのかと言われ、しかし自分としてはそんなにひどい格好をしていたつもりはないので妙な気がした。

今考えると、どちらかというと相手は、結婚したら身なりに気を使わなくなるということを自分自身に納得させたくてそう言ったように思う。

結婚したり家族ができると確かに身なりも気を使えなくなってくるし、買いたいものも自由に買えないし、急にふらっと旅行もできないが、彼はもう十何年もぼくより先に結婚生活を送ってきていて、そういう事実を、やっぱりそうなのだと改めて確認しているところだったのだろう。

それからしばらくしてその人は離婚した。

ところでぼくは、楊柳というのだろうか、よくお年寄りが夏場に着ている絞りじわの入ったシャカシャカした生地が最近は気になっていて、あれは見た目はかなり涼しげだが、直接肌に触れるとちょっとザラザラしていてあまり好みではないが、それでも蒸し暑い日に見かけると、やっぱり良さそうなのである。

だいたいそういう人々がシワシワのシャツなりズボンを身につけてゆっくりとした足取りで歩いたり、公園にある木のベンチに腰かけて扇子をパタパタさせたりしてる様子は、人間というよりは植物とか虫とかに近い感じがして、余計な汗も脂も分泌されなさそうだし、蒸し蒸しとした暑さに対しても特別何も感じていなさそうなのである。

そういうのを見ていると、早く枯れたいなという願望と、しかしまだしばらくはギトギトとした脂の残った生活を続けていたいという気持ちの両方が同時に生まれてきて、自分が来し方とこれから行く方の時間がねじれ、見慣れた光景のはずなのに、知らない場所に迷い込んだような感覚におちいる。

そんな中で、ぼくが最近買った服はギンガムチェックの、ガーゼ地のように柔らかく、しっとりした感じの綿の長袖シャツで、それは肌触りが気に入ったのと、値段が安かったのが決め手だった。

特にこれからはますます肌触りを気にするようになっていく気がしていて、それは服と皮膚が触れるところを守ってくれる脂が少しずつ減っていってるからだろう。

さて、これからちょっとずつ枯れていって、冬虫夏草みたいな生き物になるまでに、どのくらいの服を買ったり着たりするのだろうか。

今晩は、とにかく蒸し暑くて、虫の声も聞こえない。

がっかりされても、いい。


期待を裏切る、という言葉はひどく悪い意味で使われていて、お前はみんなの期待を裏切ったんだ、とか言われると自分はなんだかとんでもない犯罪を犯したように聞こえる。



しかしよく考えればぼくらは常に誰かの期待を裏切って暮らしていて、後ろ姿を見てイケメンかもとか、営業かけたら何か買ってくれるかもとか、電車の席を譲ってくれるかもとか、勝手に期待をされて勝手にがっかりされてるのだ。

ややこしいのは、そういうのを他人から勝手に思われるだけでも厄介なのに、自分で勝手に思い込んでたりして、それが困ったものである。

家族の期待を裏切ってしまったとか、上司の期待を裏切ってしまったとか、実際はどこまで期待されてたのかわからないのに、勝手に期待されてたことにして、勝手に裏切ったことにしてしまっている。

まあ誰だって、自分が誰からも期待されてないと思うのは辛いし、かといって期待されすぎるのも辛いので、本人なりに心地のいい期待され具合というのをなんとなく決めて、キープしていることが多いように思う。

この場合、一体この「自分のことを期待している」人物は誰か。

それはもちろん自分自身である。

知人で、自分はあえて苦手な領域を減らそうと努力してしまうクセがあって、その領域がだいたいなんとかなりそうになってくると、今度はまた別の苦手な領域のことが気になる、これを繰り返しているせいで、いつまでも成長実感がなくてモヤモヤする、と言ってる人がいて、これはぼくもそういう部分があるので他人事じゃないなと思った。

しかし、こういう自分自身に対する投資配分は、自分自身が決めているだけであり、それもこれも自分はまだまだ成長していけるから得意領域は後回しにしても大丈夫だろうと、勝手に自分に期待している結果なのだ。

それで思ったのだが、ぼくは小さい頃から好きな食べ物を最後に置いとくタイプで、それは長男ならではのおごりだったのだ。

敵がいないからこそ悠長に大事な唐揚げを残したままにしていられただけであり、つまりはいつやられるかわからない状況で、先に苦手なものから克服しなくちゃなんてのは見当違いもいいところで、まずは得意領域を必死に深めていって、そこから後のことを考えるのが常識である。

苦手をなくそうとするのは、非常にぜいたくで余裕のある行為なのだ。

これは余命が短くなってきたぼくにも当てはまるわけで、さてそろそろ苦手な財務会計の勉強でもしとかなくちゃな、なんてことは死んでからゆっくりやればいいのである。

それで、好きなことや得意なことばかり取り組んでいるうちは、自分にがっかりすることもあまりなくて、なぜなら自分に対してそれほど期待してない。

好きだし、得意だし、だいたいこのぐらいいけるだろう、とわかってるので大きな計算違いもしない。

もちろんそればっかりやっていると退屈になってきて、それで刺激を求めるあまり人は冒険してしまう生き物だが、やっぱりその時は気をつけておきたい。

その冒険は自分で勝手に始めたもので、だから勝手に必要以上に期待しすぎることも、必要以上にがっかりしすぎることもないのだ。

他人の反応なんてなおさらである。

世界は身体で、できている。




冷蔵庫の中のアイスコーヒーを取り出したら、仕事してる人の背中に当たらないように横ばいで、隣にあるわずかに突き出た板まで移動し、その上でコーヒーをグラスに注ぎ、また横ばいのままでアイスコーヒーを戻しにいく構造になっている職場で働いていたことがあった。



たまたま職場にやってきた客が自分でやるから気遣い無用と言って、アイスコーヒーを入れに来て、しかしそれがなかなかの技術を要することを知って、ひどくあきれたような、しかし申し訳ないような顔をしていた。

その職場には他にも施錠する際に微妙にノブをひねった状態でないとカギがかからない扉があったり、ある部分に急に体重をかけると動かなくなるエレベーターがあったりして、色々な身体的工夫を要するのだった。

ぼくは非常に運動神経が鈍いので、日々ただ自分がその職場に存在し続けるということだけでもひどく苦労したのだが、よく考えてみればわが家だってそんなに変わらなくて、狭い玄関で何人も同時に靴をはけないから必ず誰かが先に靴をつっかけたまま廊下に出なくちゃいけないし、炊飯器を炊きながら電子レンジをつけるとブレーカーが落ちるので、落ちないほうのコンセントのある床に重い炊飯器をわざわざ置き直して炊かなくちゃいけないのである。

イタリアに行った時、車が何列にも重なって路上駐車している場面を見かけたが、その一番奥に止めてる車は一体どのように出るのか聞いたら、前と後ろと隣とを順にバンパーで押し出して退路を作っていくのだという。ついにその作業をしている現場には出くわすことはできなかったけど、運転が苦手なぼくからすれば地獄のような国だなと思った。

一方で、上質なサービスみたいなものは、そういう個人の身体的な技術を強要しないものだと思いがちだが、ぼくは何度も一流ホテルの中の従業員が使うスペースに出入りしたことがあって、そこはもうちょっとマシにしたらいいのにと思うぐらい極端に狭くて古くてごちゃごちゃして、みんなそのすきまを曲芸みたいにすごいスピードで通り抜け、数ミリ単位で互いの接触を避けてすれ違いあいながら、利用客が思うところの上質なサービスを提供しているのである。

いやいやそういうのは人間がやるからダメなんだ、完全にシステム化すればよい、と言う意見もあるだろうけど、そういうシステムを構築するために優秀な人間が必要なのはもちろんのこと、そのシステムがちゃんと動き続けるように見守るためにも人間が必要で、よりちゃんとしたシステムにしようとすればするだけその人数は多くなる。知り合いのプログラマーが言うには、良いプログラミングというのは自分以外の人間が見てもすぐにわかって簡単に修正ができるものらしいが、ということは結局は人間がそれを直し続けることを前提にみんな働いているわけである。おまけに、そういうきれいなコードを速く書くには知識だけではなく絶え間のない訓練が必要らしく、これも身体術の一種じゃないだろうか。

あるいは政治家なんかも、同時に色んな人の話を聞いたり聞いたふりをしたりする技術や、何か一つのものに集中しながらも、ぐるりと四方八方に気を使うことができる特殊な身体術の使い手であり、一人の人物の中をさまざまなプログラムが一度に並行して走っている感じは、妻が夕食を何品も同時に作ってしまえるあの感じと、なんとなく似ているような気もする。

そう考えると、この世の中というものは、何か特別に悪質な人物なり究極に頭の良い人間が陰で牛耳っているわけでもなく、人工知能によって操られているわけでもない。世の色んな人の卓越した身体術の賜物なのではないだろうかと思う。

週末になるとぼくは息子をプール教室に連れていき、彼のレッスンが終わるまで、若い先生たちがクロールや平泳ぎの正しいやり方を丁寧に教えてくれるのをぼんやりと眺めている。先生たちは男女問わずみな美しい筋肉を備えていて、それをちょっと動かすだけで、いとも簡単に水の中を大きく進んでいく。彼らの素晴らしい身体術を目の前にすると、運動神経のひどく鈍いぼくは、水しぶきのかからない二階の安全なベンチから、ただ憧れとあきらめの混じったため息をつくしかないのである。