大切なことは、だいたい隠されている。

 

 

 

色んな人の訃報が耳に入ってくる。

 

 

 

よく考えてみれば、それは特別変わったことではなくて、実際は毎日かなりの数の人々が天に召されているのである。

ただ、ぼくが歳をとってそれが身近になってきたことや、コロナ騒動を通して強く意識するようになったことが原因だろう。

それで、ぼくは長いあいだ、死について考えずに生きてきたなと思った。

 

小学生の頃に祖母が亡くなり、ちょうど同じようなタイミングで家で飼っていた2匹のサンショウウオのうち1匹が、もう1匹に食べられた。

かわいがって育てていたので、おそらく祖母が亡くなったこと以上にショックを受けた。

ぼくが死というものの存在を目の前で感じたのはそのときが初めてだが、まあ似たようなことや、あるいはもっと厳しい試練を、ほとんどの人が何かしら体験していることだろう。

そこから中学生の頃まで、どうもぼくは死について、そして人生の意味についてじっと考えていたが、あるときから急に何も考えなくなってしまったように思う。

まるで宇宙人に連れ去られて実験台になっていた頃の都合の悪い部分だけ記憶を消されてしまったかのように、すっぽりとそういうことが抜け落ちている。

 

 

街で仕事をしていると、死というものは巧妙に隠されていると感じる。

誰かが亡くなったということは、大抵の場合はただの文字情報や、あの人亡くなったらしいよという噂としてもたらされる。

葬儀も時々あるけれども、当然ながら本人は亡くなったあとであり、清潔な会場が用意され、整った服を着た人たちがやってきて、物静かに儀式を進行させるだけで、そこにはまざまざと死を感じる材料はあまりない。

むしろ死の生々しさを感じさせないことに細心の注意が払われているように感じる。

仕事の中では、死というものはできるだけ避けたいが避けられない場合もある事故のようなものであり、急な人事異動とか転勤とか転職とか、そういうものと同じ扱われ方をしている。

ぼくらは時間をかけてじっくりと、自分がいなくなったあとの世界について考える機会を封印されて生きている。

誰もが確実に、この世からいなくなるその日に一歩一歩近づいているというのに。

 

 

なぜそこまで世界が必死になって死を隠したがるのかという話はまた今度(その時に生きていれば)考えるとして、問題はぼくらはいつ自分がいなくなるということについて考えるのか、ということだ。

まあこれは、今でしょ、ということだと思う。

ぼくらは本当の意味で、いつ死んだっておかしくないのだ。

だから、いつもそばに死を感じ、自分がいついなくなっても、恨みつらみを晴らせずに化けて出ないように存分に生きるしかないのだ。

できるだけ毎日全力を尽くし、できるだけ大切な人を大切にし、できるだけ後世の迷惑になるようなものを減らし、できるだけ人生の素晴らしさを味わって次の命へとつなぐこと。

それが死について考えることのほとんどのように思う。

それなのに、どうしてぼくは、そんな簡単なこをすっかり忘れてしまって、仕事のため、老後のため、勝ち残るため、といった自分が生き続けることを前提とした考え方にとらわれてしまうのだろう。

 

 

いま、誰もがうなされたように健康、健康と口にしている。

死ぬことを極端に恐れ、日常の死を必死に隠そうとしている。

それは、本当に自分だけの健康、自分だけの命をひたすら惜しんでいるからだろうか。

 

ぼくは違うと思う。

 

そこには、はっきりと言葉にはなっていない想いが隠されている。

 

自分の健康、自分の命はいつかは失われる。

けれども、それまでの時間をできるだけ長く楽しみたいし、十分に命の素晴らしさを味わいたい。

そして、それは多くの人にとってそうだし、これから生まれてくる人たちにとっても同じじゃないだろうか。

命というものは、もちろんそこに信じられないくらいの苦痛や悲しみが含まれているけれども、それでもやはり一度は体験してみる価値のある、すばらしいものなのである。

だから命は、自分だけでなく、できるだけ多くの人々と、そしてこれから世界にやってくる人たちと分かち合うべきなのである。

 

そういう、言葉にされない共通の想いがあって、だけどうまく言葉にはできなくて、変な形で表れてしまっているように思う。

 

 

だからこそ、ぼくは死を身近に感じ、自分と周りの人たちの命の存在を感じ、これから生まれてくる人たちの気配を感じていたい。

良い感情も悪い感情も、たっぷりと味わって、納得のいくだけ人生をもがいて、ああまあ色々あったし、心残りなことはもちろんあるけど、まあ化けて出るほどでもないな、今日のところはこのぐらいにしてやるか、と思って消えていきたい。

 

恐れることなんて、何もないのだ。

やる気が出ないときは、どうすればいいのか。

 

 

 

チェコ好きさん(id:aniram-czech)の記事、とてもおもしろかった。

常に体調が悪い、やる気はない、他人に邪魔をされて頭はぼんやり…クリエイティブな女性著名人たちもみんな同じだった-AM

 

 

 

若い頃は、うおおおお今日はやるぞおおおという、自分で感じることができる気持ちのたかぶりのようなものがあって、その状態をどれだけ続けられるか、がすごく大事だった。

だけど年を取ると、そもそも体調がものすごく良い、という日がほとんどない。

体調が良くないと、当然ながらやる気も出ない。

それでも最近までは、それにあらがって、無理にやる気を出そうとしていたのだが、どうもそれは違うのではないかと思いはじめていたところだった。

残念ながらわれわれは年を取るのであり、体調はどんどん悪くなるのであり、やる気がそれにつれて徐々に失われていくのである。

若い頃、年を取ったおじさんたちがなんであんなにやる気がないのだろうと憤りを感じていたけれども、彼らだってそうなりたくてなったわけではないのだ。

 

となると考えるのは、では基本的にやる気が出ない状態でもまずまずのパフォーマンスを発揮するにはどうすればよいか、ということである。

 

まず思うのは、やる気の有無で左右されやすいものを減らすということである。

恥ずかしながらぼくの仕事は主にアイデアに関わるものなので、やはりある程度のやる気が必要だ。

また、相手のアイデアを聞き、自分も考え、これを組み合わせたりする作業はとても楽しくて、この作業をしたいがために働いているようなものだが、かなり集中力を使ってしまっているようで、終わったあとにかなり疲れてしまう。

この作業自体を減らすことはしたくないが、もう少し楽にできないかと考えるに、そのひとつの答えは仕事を一人で抱えない、ということだろう。

この点についてはかなり前から気づいていて、いまはほとんどの仕事は誰かと一緒にやることにしている。

若い頃は「おいしい仕事の奪い合い」という、非常につまらない(が本人にとっては深刻な)問題があって、どうしても見つけた仕事を抱えこむクセがついていた。

残念ながらいまは、おいしい仕事なんて道端には落ちてないから、自分たちで作るしかないし、それは一人ではどうにもならないので、まあ必然的に抱えこむことも減るし、自分でも持っている仕事は積極的に周りの人たちに手伝ってもらう。

もちろん、そのぶんぼくも相手の仕事を、それがいかにくだらないことであっても手伝う。

書いてみると小学生でもわかる基本的なことだが、これがずっとできていなかった。

まあとにかく、そうやって、それがいかに自分がやりたいことであっても、抱えこまずに誰かと一緒にやることが大事だと思う。

それによって、じゅうぶんにやる気が発生しない場合でも、著しくパフォーマンスが落ちるというリスクはだいぶ低減できる。

 

さて、問題は、もともとやりたくないことや苦手なことへの対処である。

こういう事柄についてはかなりのやる気が起きないと取り組めないし、じゅうぶんにやる気がみなぎっているときであっても、なかなか難しかったりする。

ひとつの解決方法としては、それが他人からもたらされる場合は、できるだけ引き受けない、ということだ。

正面から断れる場合もあれば、上手に断らないといけない場合もあるけれども、これは意外と成功することが多い。

なぜなら、ぼくらは膨大な体力とやる気の喪失と引き換えに、年齢というものを手に入れているからである。

年を取ると、ああこんなおっさんに頭下げて頼むのは面倒だなとか、どうせたいした成果を出せないだろうとか、相手からあきらめられるケースが増える。

どっちみち、ぼくでなくてもできる仕事を頼んできているのだ。

もっと気軽に引き受けてくれて、仕事も早い若手にチャンスを提供するのも自分の役割だと勝手に思っている。

 

さて、もうひとつ、もっと良い方法があって、それはなんのやる気もない状態で、とりあえず手をつけてみることである。

コツがある気がする。

まず、頭を使わない。

手や足や腹や腰や、なんでもいいから体を動かす。

心の中は無である。

ゆっくりと自分のペースで体を動かしていると、少しずつ気分がよくなってきて、次第に頭も働きはじめ、ちょっとした工夫をしてみたくなり、気がつくと終わっていたりする。

これには色んな理由があると思うし、その理由のほとんどはわからないけれども、どうも頭を先に使いはじめると、頭は勝手に先のことを考えはじめるからではないだろうか。

先のことを考えるのは大事なのだが、やりたくないことや苦手なことの場合、それをやった際に感じるであろう苦痛や、その苦痛に対して得られる成果の小ささばかりが強調される気がする。

その結果、頭が全身に対して、やめとけやめとけ、という号令を出してしまうのだ。

それは別に年齢と関係なく誰もが体験していることだろうけれども、年を取ると経験が増えるだけに、いくらやっても苦痛が残るだけだったというフィードバックが蓄積され、余計に何事もおっくうになるのかもしれない。

だからこそ、文句ばっかり言って自分ではなにもしない頭脳のことなんて一度忘れて、ただ体だけを動かしてみる、というのが解決になることも多いように思う。

 

さてそうなると、別にやる気がなくたって何でもできるじゃないかと言われそうだが、冒頭に言ったように、基本的にはいつも体調が悪くてじゅうぶんなパフォーマンスを発揮できず、余命だって若い人よりもずっと少ない状態なのである。

ぼくだって残された人生を大事に使いたい。

そこで重要になってくるのが、優先順位だろう。

ぼくの優先順位は決まっていて、まずは妻の言うことが一番大事であり、次が子どもたちであり、次に自分のやりたいことである。

じゃあ仕事はどうなるのかというと、これは自分のやりたいこととの等価交換というか、やりたいことを気持ちよくやるために汗をかいているだけである。

そこにあんまり難しい切り分けはない。

とにかくその順番に自分の体を使う。

 

そう考えると別に人生においてやる気なんて必要でもなんでもないような気がする。

自分なりに大事にしているものがあって、それをいつだって大切にし、まあときにはどっちを優先するべきか迷ったり、理不尽なできごとに苦しんだりしながら、だけどなんとなくすべてが心地よくいくように生きていけばいいように思う。

 

そもそも、やる気とはなんだろうか。

それは、よしこれをやるぞ、これをやるためなら他のことが多少失われたとしたって、やり抜いてみせるぞ、という決断のことではないだろうか。

もし、ぼくらが何が大事なのかがはっきりわかっていれば、わざわざやる気なんて持ち出さなくたって、勝手に色んな判断がなされていき、自分が望む方向へと物事は進んでいっているのではないだろうか。

だとしたら、短期的な視点で自分は今やる気があるとかないとかいうことに一喜一憂することなんてやめて、じっくりとやっていけばいい。

 

 

それが年を取った人間の唯一の特権なのだから。

すべてを抱いて、消えていく。



年を取ってよかったなと思えることのひとつは、当たり前だけれども、思い出がたくさんあることだ。



その中で、このところずっと思い出されるのは、妻と上の子(まだ1歳になっていなかった)とバリ島に行ったときのことだ。
ホテルまで送ってくれるバスの中で、運転手が簡単にバリの案内をしてくれた。

バリはインドネシアの多くの地域と違って、ヒンドゥー教を信仰している人が多いです。
ヒンドゥー教はバランスが重要な宗教です。
善と悪も、なにもかも、バランス。
どっちも必要。
そのバランスを保つことが大事。

ぼくはこれを聞いて、なんだかほっとする考えだなあと思った。
当時のぼくはまだ、自分の仕事や生き方について絶対的な答えを探していたように思う。
クリエイターとして成功するにはどうしたらいいのか。
人生の勝者になるためには何をすればいいのか。
そんなときに、善と悪、成功と失敗、栄光と挫折、幸せと不幸せ、生と死、どちらも受け入れて生きていくという考え方が、妙に印象に残った。

だからといって、そこから何かが大きく変わったわけではない。
どちらも大事、なんて甘い考えで仕事をしていたら、すぐに競争からはじきとばされてしまう。
こっちが大事だと即決し、敵と味方を明確にし、正しい行動とそうでない行動を区別しなければ、やられてしまう。
そう思いこんでいたし、周りもそういう態度をぼくに期待していたように思う。
というとずいぶん昔のことのようだけど、今だって、同じようなものだ。
ぼくが従事してきた仕事の背景に、そういった考えがずっと根を張り、多くの人がそれを当たり前のこととして働いてきた。

今になってバリ島のことが思い出されるのがなぜなのかはよくわからないが、どうもあの時に感じた、そうだよな、人間って善でも悪でもない、両方を抱えて生きている存在だよな、という思いが、またよみがえってきているようだ。
自分自身と身の回りに起こったことをすべて受けいれて、それらを肯定し、バランスを取りながら生きていく、そういう人生のとらえかたに、あらためて魅力を感じているように思う。
理由はよくわからない。
あれから年を取ったし、家族も増えたし、仕事の中身も大きく変わったし、色んなできごとがあった。
だけどそんなに大した変化があったわけではないようにも思う。

おそらくぼくは、もうずっと昔から、そのことに気づいていたのだ。
人生には、正解なんて存在せず、死ぬまでに経験したことの総和があるだけで、それもいずれはあとかたもなく消えていくだけだということ。
それを、この混沌とした世界の中で、あらためて確認しているだけなのだ。
もちろん、だからといってすべてが空しい、なんてことはまったく思わない。
いや、すべてが空しいからこそ、すべてが愛しい。
生きることのすべてが、なんて豊かで、なんてみずみずしいのだろうと思う。

そういえば、バリ島から帰って、少しだけヒンドゥー教について調べてみたけれども、バランスが大事、なんてことはどこにも書いていなかった。
今ちょっと調べなおしてみたら、どうもバリ島で独自の発展をとげた教義のようだ。
あの時にバリに行かなければ、触れることがなかったのかもしれない。

そういうことも、年を取ってよかったなと思えることのひとつだ。