教えることなんて、あんまりない。



上の子がだんだん大きくなってきて、気がつくと小学校高学年になる。



最近はなかなかこっちの言うことを聞かなかったり、屁理屈を言い返してきたりして、困る場面も多く、悩んでいたりもするのだが、よく考えると自分のその頃の記憶はかなり鮮明に残っていることが多く、父親とどんなことを話したかとか、けっこう覚えているし、何か自分なりに色んなことを考えていたような気がして、つまりはもう一人の人間として心の独立が始まっている時期なのだろう。

もう彼は、「ぼくの子ども」ではなく、彼自身の人生を始めているのだ。

最近は、学校や図書館で借りた本をもう全部読んでしまって読む本がないとぶつぶつ言っていたので、万城目学さんの本を貸してあげたら(本当は、読めるかどうか微妙だなと、ちょっとした意地悪な気持ちはあった)面白かったらしく、こうなるともう本読みという意味では同輩であって、もうそろそろこっちから偉そうに教えられることはなくなってきたなと思った。

人を育てるというのはたぶんそういうことかもしれないと思って、つまりはもう子育てというのはすっかり終了していて、あとはどれだけお互いに一人の人間として、少しでも良い時間を共にできるか、それをお互いに工夫する段階だろうし、もちろんそこはぼくが彼よりもずっと工夫しなきゃいけないのだ。

ぼくは自分の父のことが好きで、なぜなら彼はプライドが低いからである。

自分のことを決して偉いと思っていないので、色んな人と話ができるし、相談も気軽に引き受ける。

思春期の頃はそういう父をバカにしていたけれども、今となってはやっぱりプライドが低いのはいいことなのだと思う。

老いては子に従えというけれど、ぼくはまだそこまで老いていないけど、もう子どもに色々と勝てない。

下の子はまたタイプが違っていて、身体を動かすのが得意で、自転車の後ろに乗らずにずっと並走し続けたりするし、公園に行くと延々と遊び続けるのでこちらの体力がまったくついていけない。

はじめのほうこそ父親たるもの、みたいな風にかっこつけていたけれど、今となってはかっこわるい姿ばかり見せている。

どっちみち恥をかくのは一緒なので、だったらはじめからプライドなんてものは必要ないのだ。

ところで最近、根性、という言葉はあまりいい意味では使わなくなってきたが、ぼくは意外と根性という概念は嫌いではない。

プライドは要らないが、根性はあったほうが役に立つような気がする。

もちろんなんでもかんでも根性で乗り越えるべきとかそういうことではなくて、ああこれはいかん、このままではとんでもないことになってしまう、というときにエイヤと腹から力を出してなんとかしようと思える、そういう根性はやっぱりあると役に立つ。

幸福学を研究している前野隆司先生も『なんとかなる!因子』が大事な因子の一つだと紹介している。

ただまあ、あまり根性に頼りすぎると、過酷すぎる環境に追い込まれたり、その環境を甘んじて引き受け続けて心身を壊してしまうから気を付けないといけない。

だけど、いざというときは根性で乗り越えてみせるさと、そう思えることは大事で、たぶんそれは過去にそういう経験をたくさんしないと得られない態度のような気がする。

本人がつぶれてしまわない程度で、気力も体力も十分に発揮できて、しっかりと挑めばなんとか乗り越えられる、それぐらいのちょうど良い試練を得られるかどうか、そこはまだ親が支援できる要素かもしれない。

まあそんなことを色々考えていたって、とにかくまだまだ仕事と育児に同時に取り組み続けないといけない時間は続く。

やっぱり、こっちがまだまだ「なんとかなる!」と信じて、根性で乗り越えていかないといけない道のりは長そうだ。


さて、あわてず、あせらず、進んでいくか。

中年になる方法は、検索しても見つからない。

 

 

 

江國香織さんの『なかなか暮れない夏の夕暮れ』という50代の男女たちが出てくるすてきな小説を読んで、中年にとって大事なものはなんだろう、とあらためて考えて、それで、そういうことをいちいち考える必要のないのが中年かもしれない、と思った。

 

江國さんの物語に出てくる中年たちはバブル期に青春をすごした人たちなのでちょっとぼくとは時代背景が違うかもしれないが、あまりそこは関係なくて、みんな何かに悩んでいたり、孤独を抱えていたりして、だけどそういった現実に無理に抗おうとするわけでもなく、昨日の延長線にある今日を楽しもうとしている。

 

思春期もそうだが、いわゆる中年の危機においては、自分はどう生きるべき、どうあるべき、という、べきの壁に向き合う時期は必要で、それにぶつからなきゃ自分を変えるパワーは生まれない。

 

ところが壁を越えてしまうと、どう生きるべき、なんてふっとどこかに行ってしまって、今日は何を食べたいか、誰に会いたいか、どんな本を読みたいか、というような小さな関心に導かれながら暮らし、その総体としての自分にそれなりに満足して生きられるような気がする。 

 

世の中には、そういうことに気づかせてくれるヒントが少ない。

 

もし周りに、あんな年の取り方をしたいなあという人がいたら、それはすごくラッキーで、大抵はああいう年の取り方はしたくないなと思うことばかりだ。

 

あるいは、自分には全然手の届かないような人や、自分とは全く違う強みを持った人を模範にしてしまって、いくら努力してもそこにたどり着けないことにがっかりしてしまう。

 

若い人ならそれでもなんとか理想に近づけるかもしれないが、ぼくら中年にはなかなか厳しい話だ。

 

 

じゃあどうすれば自分なりの年の取り方を見つけられるのかと言えば、そんなものがわかってたら苦労しないわけだが、ぼくが思うのは、もう一度、好き、に立ち返ることだ。

 

その好きはコピーライティングとかじゃなくて、もっと幼稚な好きでよくて、ぼくなら、人と一対一でおしゃべりするとか、ぼーっと妄想するとか、その妄想を絵にしたり言葉にしたりするとか、そういうことだ。

 

そして、考える。

 

はたして最近は、そんな幼稚な好きをちゃんと満たしているだろうか、と考える。

 

それで、うん充分に満たせているなと思える人はそのまま年を取っていけばいいが、そうでない場合は、今の生活の中に、幼稚な好きをうまく埋め込んでいけないかと考えてみる。

 

久しぶりに旧友と会っておしゃべりする機会を作るとか、半休取ってひたすらぼうっと妄想するとか、もう数十年ぶりに絵でも描いてみるかとか、そんな非生産的で無駄な時間を作ってみる。

 

そのうち、ふと気づくのである。

 

ああ、自分はもう充分にがんばってきたなあと。

 

昔はこういう非生産的なことをして暮らしていたのに、ちゃんと大人になって、生産的なことをちゃんとやろうとして、ああでもないこうでもないと迷いながら歩いて、ボロボロになって、年を取って、すっかり中年になったんだなあと、気づくわけである。

 

大事なのはここまでである。

 

 

それじゃなんの解決にもならないじゃないかと思われる諸兄姉もおられるかもしれないが、ぼくらが生きるこの社会は常に生産性とか効率化とか成長とか努力とか根性とかを求めるし、ぼくらはなんとかしてこういうことに応えようと生きてきたわけだが、中年に差しかかって、能力も落ち、成長率も鈍化し、変化に対応できなくなってくる自分を認められずに苦しんでいる、そういう自分に気づくことが大事なのだと思う。

 

これまでよくがんばってきたじゃないか、えらいぞと、カチカチに表面が固くなって分厚くて、しかしいたることろ傷だらけの大人の皮をかぶり、中でブルブル震えている自分をほめてやろう。

 

もうこれ以上無理をすることはない。

 

なぜなら、もうとっくに、ぼくらはたくさんのものを手に入れることができているからである。

 

やりたいことを泣く泣く手放して心を殺して取り組んできた仕事の中で手に入れたタフさ、誰も手を差し伸べてくれない場所で一人でじっと孤独と向き合って身につけた自分で考える態度、大嫌いなやつに頭を下げ続けて気がついた本当に大事にしたいもの。

 

世間はもっと金を稼げとか成長しろとか偉くなれとか貢献しろとか言ってくるかもしれないが、ぼくらの手元には十分な宝物があるのだ。

 

 

さてこの先は、ぼくら次第である。

 

なんだ、もう十分にがんばってきたのだから、ここからはもっと自由にやっていこうと、新しい道を進む人もいるだろうし、どうせ残りの人生はボーナスゲームなのだから今のゲームを行けるところまで行ってやろうと思う人もいるだろうし、なんにせよちょっとペースを落としてゆっくりしようという人もいるだろう。

 

これが合っているかなんてわからない。

 

いずれにしたって、ぼくらが年を取る方法なんて、誰も教えてくれないのだ。

 

ただ、わかっているのは、正解を求めていたって一生見つからない、ということだ。

 

 

 

正解というのは、人から与えてもらうものではなくて、自分で作るものなのだ。

 

 

なかなか暮れない夏の夕暮れ

なかなか暮れない夏の夕暮れ

 

 

喫茶店に一人でいる人間は、まともじゃない。





ぼくの父は、昔はタバコを吸っていて、そのせいなのかそのせいでないのかはよくわからないが、喫茶店にばかり行っていたような気がする。



子どもの頃、梅田の喫茶店に連れて行ってもらい、エクレアといういかにもうまそうな食べ物がショーケースに陳列されていたので、それを注文したところ、店のおばちゃんが冷蔵庫から透明のビニール袋に入った、シュークリームのミイラみたいなのを出してきて、手で袋を開けて皿に置いたのを見て、ひどくがっかりしたのを覚えている。

当時の広告業界はひどくいい加減で、クリエイティブディレクターはいつもデスクにおらず、いきつけの喫茶店に直接電話して呼び出したりしていたという話も聞く。

父もそういう環境の中で仕事していたのだろう、どっちにしたってまともな感覚じゃあない。

それで、もれなくぼくにもまともじゃない感覚は受け継がれていて、まあ別に喫茶店に行かなくても仕事はできるが、ちゃんとした姿勢で何かをやる、というのができない。

いつも貧乏ゆすりをしているし、無駄口を叩きながらじゃないと調子が出ないし、そのくせ自分が集中しはじめると誰とも口を聞きたくなくなる。

ぼくは一度も転職したことがないのをちょっとうしろめたく思ってたりするのだが、しかし今さらまともな職場で働けるイメージもない。

振り返ってみるに、基本的にぼくは昔から生活態度が悪い。

規則正しく暮らすことが苦手で、試験も一夜漬け、面白い本を読み出すと朝まで読んでいて、学生の頃は昼はずっと寝ていたりした。

そんな態度で生きてる人間でもなんとかまともに働けるようにスイッチを入れてくれるのが一杯のコーヒーであり、それを誰にも邪魔されずにゆっくり飲める場所が喫茶店なのである。

だから喫茶店で一人でぼうっとしている人間なんてのはだいたいまともな人間じゃなくて、ちゃんとした人はいつだって規則正しく暮らし、無駄な時間を使わず、やるべきことを終わらせて、あとはしっかりと楽しみ、充実した毎日を送っている。


茶店は好きだが、仕事中にわざわざ昼飯を食べに行くのが最近はあまり好きではない。

行ったり来たりする時間がもったいないし、会社の人とばかり食事をするのも飽きたし、コンビニで食べたいものだけ選んで自分の食べたいときに食べる、というのも悪くないなと思いはじめた。

外食すると、ラーメンとカレーはなかなか同時に食べれないが、コンビニなら簡単だし、栄養バランスがどうとかうるさいことも言われないし、言われないのに他人の目を気にして妙な注文内容になったりせずにすむ。

自分はまともな人間じゃないくせに、なんとかまともなフリをしなきゃいけないと思っていて、そういうのに飽きてきたんだろう。


ただまあ突っ張っているわけではなくて、まともじゃないからこそできることは意外とこの世界には色々あって、むしろまともじゃない部分を、世の中にちょっとでも役立つようにするかがミソで、そのときだけはちゃんと目覚めた状態でいなきゃいけない。

そのためには、錆びかけた活動スイッチを入れ直す儀式が必要で、その降霊の儀を執り行う場所が喫茶店なのだろう。


どっちにしたってまともな人間のやることではない。